博物館ディクショナリー

青磁水注 (越州窯) (せいじすいちゅう 〈えっしゅうよう〉)

 写真の水さしは、今から50年以上も前に、偶然掘り出されました。みつかったのは、京都府宇治市木幡金草原(きょうとふうじしこわたかなくさはら)というところの茶畑だったそうです。

  • 青磁水注(越州窯)
    青磁水注(越州窯)
    ー宇治市木幡金草原出土ー
    高21.7cm 口径9.6cm 底径8.0
    中国 五代ー宋時代(11世紀)
    <京都国立博物館蔵>

 昔の遺跡(いせき)を掘ると、陶磁器(とうじき)のカケラはよく出てきますが、無傷で完全な形のまま出てくることはめったにありません。なぜなら、遺跡から出てくる陶磁器の多くは、割れたりして使えなくなったために捨てられたものだからです(ふつうまだ使えるものをむやみに捨てたりはしませんよね)。しかし、この水さしはなぜか割れずに埋まっていました。これは、埋まってしまったのではなく、わざわざ完全な形のものを埋めたのだと考えると理解できます。では、なぜこの水さしは埋められてしまったのでしょうか。

 この問題を解くヒントは、どこでみつかったか、です。水さしが出土した宇治市の木幡にはかつて浄妙寺(じょうみょうじ)というお寺があったといわれています。このお寺は、寛弘(かんこう)2年(1005)に藤原道長(ふじわらみちなが)が一族(藤原北家〈ふじわらほっけ〉)の菩提寺(ぼだいじ)として建てたもので、近くには道長本人もふくめて藤原氏一門の墓地があったようです。掘り出されたのがこうした場所であったことを考えると、この水さしはお墓に遺体や遺骨を埋葬(まいそう)する際に一緒に埋められたものではなかったか、と思われます。今でも、亡くなった人が生前大事にしていたものを棺(ひつぎ)に入れたりしますから、これは充分にありそうな話です。

 そうだとすると、この水さしは当時(平安〈へいあん〉時代)栄耀栄華(えいようえいが)を極めていた藤原氏一門の人が大事にするほど高価なものだったのでしょうか。

青磁水注実測図
青磁水注実測図

 この青磁の水さし(水注)は、その形や色、焼きぐあいなどから中国の浙江省(せっこうしょう)にある越州窯という窯(かま)で五代(ごだい)~北宋(ほくそう)時代のはじめ(9世紀後半)ころに焼かれたものと考えられます(北京〈ぺきん〉の故宮博物院〈こきゅうはくぶついん〉には、これとよく似た青磁水注が保存されています)。 つまり、平安時代に海を越えてはるばると運ばれてきたものだったのです。今と違って日本と中国の間をそう簡単には往来できなかった時代ですから、それだけでも簡単には手に入らなかったものであろうことは充分わかるでしょう。実際、あっちこっちで遺跡の発掘が行われていますが、日本で越州窯の青磁が出土することはごく稀(まれ)です。平安京跡などの発掘調査が進む中で徐々に増えてきてはいますが、それでもみつかるのは天皇家の関係者の別荘や位の高い貴族の邸宅跡からばかりで、やはり限られた人だけが手にすることができるものだったようです。

 ところで、平安時代の物語として有名な『宇津保物語(うつほものがたり)』や『源氏物語(げんじものがたり)』には、「ひそく」という言葉が出てきます。「ひそく」に漢字を当てはめると「秘色」。秘められた色というのはなかなかすごい表現ですが、一体どんなにきれいな色だったのでしょうか。

 時代は少しくだりますが、14世紀(室町〈むろまち〉時代)に書かれた『源氏物語』の注釈書(ちゅうしゃくしょ)である『河海抄(かかいしょう)』には、「案(あんずるに)に秘色は磁器也、越州よりたてまつる物也、其色(そのいろ)翠青(すいせい)にして殊(こと)にすぐれたり」とあります。つまり、「秘色」とは中国の越州から持ってこられた青緑色の磁器だということです。

 これは、このまま写真の青磁水注にも当てはまる説明です。しかも、『宇津保物語』や『源氏物語』が書かれたのとほぼ同じ時代のものであることを考え合わせるならば、当時の人たちがこの水注を「ひそく」だと考えていた可能性はかなり高いと言えるのではないでしょうか。

工芸室 尾野
1997年1月11日

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