楽しい時間/狩野 博幸

 三島由起夫の最も古い記憶は、自分が生まれたときに見た盥たらいのふちに散乱する光であったという。その伝でゆけば、僕の最初の記憶は、暗闇のなかにうごめいている夥しい光の洪水である。と書けば、何やら 『仮面の告白』 の二番煎じのように聞こえるが、何のことはない、映画館のことだ。

 父が映画好きであったため、物心もつかぬ頃から映画館に連れてゆかれた。退屈もせず、むずかりもせず、解るはずもない画面を見ていたらしい。 邦画、洋画の区別もなく、况いわんや子供向けなどに限ることもなく、ただただ、じっと見ていた。夜の部をひとりで見に行ったのがバレて、担任の斎藤好子先生に一喝、廊下に立たされたのは小学2年のときである。依え怙こひいきされていると思っていたので、これはショックだった。あるとき、先生が両親に社会党に票を入れるように頼んでいる所に居合わせてからは、立たされることはなくなった。

 小学高学年では小津安二郎について父と議論するという、ヘンな子供になっていた。小津の 「麦秋」 が4歳のとき、「東京物語」が5歳、以後、「早春」 「東京暮色」と続き、「彼岸花」が11歳、「お早よう」「浮草」が12歳、「秋日和」が13歳、遺作「秋刀魚の味」の封切が昭和37年の暮で15歳、あくる年の12月12日、小津は満60歳の誕生日に死去したのである。僕の幼・少年時代は、僕にとっては少しも大袈裟ではなく、小津とともに始まり、そして終わったといえる。

 僕が近世絵画を専攻するようになった理由のひとつに、小津 (というより映画) の影響があげられる。近世絵画とそれ以前の絵画を截然とわけているのは、画者の視点 (カメラのアングル) が著しく多様になったことである。極端にいえば、絵描きの数だけアングルがあるといってよい。小津はその独特のローアングルの理由を訊かれて、「私の趣味だ」と答えている。近世絵画の多様性は、すなわち趣味の多様性なのである。小津が自分の趣味にこだわるように、他の監督 (画者) もそれぞれの趣味に拘泥するのだ。

 いまひとつは、リアルさの演出という点である。単に再現だけがリアルであれば、写真の発明の時点で、絵画は滅びただろう。小津はマッチで煙草に火をつける場面で、普通の生活ではマッチを擦り損なうこともしばしばあることだが、映画では「気持に動揺があるといった様な感情的な別の意味」をもつシーンでしか使えない。従って、何気ない仕草のときは、一度でつくように演出する、という。表現としてのリアルさの背後を支える画者の「演出」が、僕の趣味の対象になった。北斎の赤富士を見るとき、僕はそのアングルと演出に思うさま酔うことができる。

 北斎だけではなく、歌麿や広重、若冲や芦雪がどんな映画を撮るだろうと想像するのは、僕のこよなく楽しい時間である。楽しさを感じられなくなったら、 それは美術へ延びる赤い糸が切れたときに相違なく、潔くすべてを放擲して、他の世界へ出航しなければならぬ。

[No.102 京都国立博物館だより4・5・6月号(1994年4月1日発行)より]

京都国立博物館 Twitter

ご来館くださる皆様へ
京都国立博物館からのお願い

↑ ページのトップへ