七条町ぎるど/久保 智康

 小文が京博だよりに載るころ、私はヨーロッパをひとり歩いている。彼地の金属工芸品を見たいと思っているのだけれど、とくに中世・近世と時代が動くにつれ、これらに見られる「技巧性」と「装飾性」がどのように変移していくのかということに興味がある。

 注文主など需要側の問題や、地域間の文化的な影響関係などはとりあえず棚上げにして、モノを作る側、生産者たちの方へ目をやると、先の二つの特性は、 ごく大雑把にいって、時間を経るにしたがい強調され、やがて硬直化するケースが多い。それは、工房の中で技術・意匠等が単純に伝習されるような場合にもっとも顕著になるのだろうが、実際の作品を少し細かく見ていくと、事はそう単純ではないであろう。

 (ここから先は、まったくのカンであるが……) 工芸品の技巧性や装飾性の高低の動きは、社会の大きな変動に波長を合わせるように、微妙なカーブを描くのではないか。中・近世ヨーロッパでいえば、ギルド (ドイツではツンフト) と呼ばれた同職集団が工芸品制作の基本単位となるが、このギルドが社会体制のなかでどのように存在し、どう変化していったかによって、上のカーブもある程度決ってくるのではないかと考えるのである。

 ところで、私がこのような関心からヨーロッパ金属工芸を見たいと思ったきっかけは、かなり唐突である。それは、昨年京都駅前の近鉄百貨店拡張工事に伴う発掘の現場で、銅鏡や仏具の鋳型がたくさん出土したのを見たことであった。平安時代中ごろに書かれた「新猿楽記」に、金集百成という架空の人物が登場する。彼は京の七条町に住まい、それこそ鏡・仏具から馬具・刀剣、さらに鋤・鍬などの農具に至るまで、ありとあらゆる銅・鉄の鋳造、金・銀細工を行っていたとされる。そして実際に、京都駅北側一帯で行われる発堀で、さまざまな種類の鋳型が、必ずと言っていいほどに出土する。遺物の年代から、11~14世紀ごろ京七条町にかなり規模の大きい同職集団 (ギルド) が存在したことは間違いない。

 時はヨーロッパ中世の後半期にあたり、彼地の諸都市で手工業ギルドが力をつけ、内部では親方と職人が対立するなど徐々に変質をきたした時代である。日本のギルドが、宗教権力を後楯に特権をもち、広域に交易・遍歴するなど、ヨーロッパと多くの共通点をもつことは、すでに中世史先学の説くところでもある。ただ洋の東西の、この興味深いアナロジーも、現実のモノ作りレベルで比較・検証されているわけではない。

 私など、何より気になるのは、11~14世紀という時代が、七条町ギルドで作っていたであろう各種金属工芸品を典型として、くだんの技巧性・装飾性カーブのきわめて大きな絶頂期とその後の退潮期にあたるということである。同時期のヨーロッパギルド製品が日本に類似したカーブを描くかどうかを確かめることは、先の中世史学上のアナロジーの意味を考えるのに多少は役立つであろうし、「技巧性・装飾性カーブがギルドの社会的位置の変化と関係する」という仮説も、あながち無意味ではなくなると思うのである。

[No.104 京都国立博物館だより10・11・12月号(1994年10月1日発行)より]

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