石仏の思い出/若杉 準治

 今春、臼杵磨崖仏が石仏としては初めて国宝に指定された。臼杵磨崖仏は、 昭和9年に史跡として指定を受け (同27年特別史跡となる)、彫刻として重要文化財となったのは昭和37年のことで、彫刻としての価値はさほど認められていなかったことが窺われる。

 臼杵にほど近い三重町という所に生まれた私は、4歳の時はじめてこの磨崖仏群を見ている。当時臼杵と三重を結んでいた国鉄バスに乗って、大工をしていた父の仕事場に遊びに行く間に親しくなった車掌のお姉さんに連れていってもらったのが最初であった。その時には、異様な彫刻の大きさと数の多さとにただ驚いただけであったように思う。

 その後、臼杵石仏にはいくどか訪れているが、中学生になって歴史に強い興味を示すようになったとき、教師に勧められて、夏休みに友人と二人で生まれた町の寺院の文化財や史跡をめぐったときはじめてみた石仏には、とても感動を覚えた。そして、その感動が美術の研究をこころざす大きな契機になった。その石仏というのは、菅尾石仏で、凝灰岩の崖をくり抜いて、中に彫り残す形で丸彫りされた千手観音、阿弥陀如来、薬師如来、十一面観音の四体と、壁に浮き彫りされた昆沙門天から成っている。この尊像の組み合わせについては熊野本地仏との関連が説かれているが、その頃の関心は、文化的に先進地とは思えないこの土地に、どうしてこんな冴えた彫刻技術をもつ見事な仏像が存在するのかという事であった。

 この関心は、高校3年の文化祭での「二豊武士団と豊後の石仏」という発表となった(この文化祭は、南高節がフォークを歌って、その後の活動の出発点になったものである)。発表は、平安時代末期に豊後に割拠した緒方一族の本拠地と、石仏の所在地の相関関係について考えたものであった。緒方一族は、 源頼朝との確執の中で、大物浦から船出した源義経を迎えようとした武士で、そのことから考えると、当時この地域は中央と直結する勢力の中心地であったことが窺われ、このような石仏の存在も当然なのであった。そのころは資料の調査や研究が至って未熟で、検証も不十分であって学問的な結論ではないが、このことについては、今も考えは変わっていない。

 その後、修学旅行で京都、奈良の名品を見、また美術図版でも多くの仏像の写真にもふれていたが、その中でも、この仏像群が県指定以上でなかったことが不思議であった。指定が美術の価値と一致するものでないことは今では当然のように認識しているが、そのころは、何かこの石仏群が認められていないと残念に思っていた。

 大学で美術史学を専攻し、博物館に就職したいま、研究に悩むことがあるとき、いつも思い出しているのは、あのはじめて菅尾石仏を見たときの感動と思考である。すなわち、誰が何のためにこんな素晴らしい美術を作ったのかという事から考えをはじめることによって、道が開けることが多い。その意味で、豊後の石仏は私にとって宝であり、その一つが国宝指定を受け、注目されるようになったことはとても喜ばしい。

[No.108 京都国立博物館だより10・11・12月号(1995年10月1日発行)より]

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