不動明王像と像内文書/湯山 賢一

 当館のメインホールともいうべき新館7室 (彫刻) を入った右手に大きな不動明王像が陳列されているのを御覧いただけたであろうか。この像は高幡不動の名で知られる 東京都日野市の金剛寺不動堂の本尊として安置されるもので、丈六の不動明王を中尊に、矜羯羅・制迦の二童子立像を左右に配した三尊像である。

 本像は榧の寄木造りで、光背にみえる刻銘や像内の銘札などにより、南北朝時代の建武2年(1335)の台風によって木が倒れ、本堂を圧し潰したため破損し、 康永元年 (1342) に修理したことが知られる。しかし、像の製作年代は古く平安時代院政期の後半とみられる。彼の地において造られたと考えられるこの像は、檀越となった当時の東国武士団の日常を彷彿させる力強い造形で、まさに12世紀の東国ならではの遺品といえよう。現在脇侍の二童子像は当館文化財保存修理所内の美術院において修理中であり、引続いてこの中尊も修復される予定である。

 さて、昭和の初年にこの中尊像内の首の辺から夥しい印仏を捺した古文書が発見された。これが平成6年に「高幡不動本尊像内文書、六十九通」 として、 「木造不動明王及二童子像 (不動堂安置)」の重要文化財指定と並行して古文書部門で重文となった納入文書群である。仏像の像内に造像の旨趣や願意を明らかにするために仏像を納めることは伝承上からみても、 極めて古くから行われていたようである。 こうした仏像造立の意を籠めるという方法は、当然のこととして、 同様に造像の勧進や法要、あるいは修復などに関わる経典や文書類を併せ納める風潮を招いた。

 この不動明王の像内に納められた古文書は、暦応2年(1339)の常陸合戦に高師冬に従軍して戦死した山内経之(やまのうち・つねゆき)の菩提を弔うために納められたもので、 69通のうち50通が山内経之の自筆書状と認められる。いずれも平易な仮名文で、 その内容も日常の生活に関するものや常陸合戦の陣中から留守宅の妻子や高幡不動の僧侶などにあてたものがほとんどである。前者では、鎌倉にあって訴訟中の経之が担当奉行の配下に酒を振舞いたいが大勢なのでままならない、など現代とあまり変らない役人接待のあり様を伝えるものや、後者では、 従軍費用を借金によって工面したり、乗馬も倒れ、兜も懐れて他人のものを借りて戦っている激戦の状況や、留守宅の妻子を思う心情を述べたものなど、当時の弱小東国武士団の実態を赤裸々に伝えて興味深いものがある。

 ところで、このような像内納入文書は一般には胎内文書といわれてきた。今も歴史関係者の多くは胎内文書と呼んでいる。しかし、 胎内には母親のはらのなか、胎中の意味があり、本来性別をもって表現するには相応しくない仏像の場合、表現として問題がある事もまた事実である。そのため、 美術史学界では近年は像内との表現を用いており、この納入文書の指定名称が 「像内」とあるのもこの理由による。

 納入文書を念頭に、この不動明王のお顔を拝すると、何やら山内経之の苦労の思いを無理やり飲み込んだようにみえるのは私の思い過ごしであろうか。

[No.118 京都国立博物館だより4・5・6月号(1998年4月1日発行)より]

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