歴史的イメージと史料/下坂 守

 固定化された歴史的イメージほど厄介なものはない。たとえば応仁の乱の京都といえば焼け野原、中世の土地制度といえば荘園制、といった類のいわゆる教科書的な歴史イメージである。よく考えてみれば、これらがおかしいことはすぐわかる。約十年続いた応仁の乱中にも京都には朝廷・幕府が存在しており、全くの焼け野原では人々の生活が成り立っていくはずがなかった。また、荘園にしても、当時の支配者の統治能力からして、正確な境界線がすべての荘園と荘園の間に存在するわけもなく、それが基本的な土地制度であったとしても、そこから抜け落ちた地域も広くあったと考えなければならない。

 もちろん教科書であれば、ある程度の図式化・形式化はやむを得ない。しかし、専門の研究者までがこれらの固定化されたイメージに引きずられるようでは困る。一例をあげれば、史料には荘園とは一切記されていないにも関わらず、はなから荘園と決めつけられていた例としては、近江の葛川(現大津市)の事例がある。この地は延暦寺の霊場であったことから、中世の史料には「葛川」としか出てこない。にもかかわらず長く研究者は勝手にこれを「葛川庄」と理解した上で研究を進めていたのである。固定化した歴史イメージほど、厄介なものはない典型的な例の一つといえる。

 歴史で正しいイメージを作り上げていく道はただ一つ、史料の忠実な読解しかない。ところがこの史料の読解がまた一筋縄ではいかない。書かれていることをそのまま引き写し、適当に繋いでいくだけであれば話は簡単である。だが、古文書であれば、当然のことながら、それを作った人の立場、作った目的、受け取った人の立場など、前段階で考えなければならないことは少なくない。ところがこれらの作業が少なからずないがしろにされてきたというのが、研究の実態である。

 中世における近江商人の活動を語る際に必ず用いられる『今堀日吉神社文書』を用いた研究で、今堀(現八日市市)宛の文書が延暦寺(東塔東谷)の発給と確定されないままに長く利用されているのなどはその一例といえる。誰が作った文書かを明確にしないままでよく史料として利用できるものであるが、このような例は決して少なくない。いわゆる歴史理論なるものがあれば、史料などはほどほどで歴史が叙述できるのかもしれない。だが研究者のこのような史料に対する安易な取り組みがなくならない限り、誤った歴史的イメージがはびこり続けることはまちがいない。

[No.125 京都国立博物館だより1・2・3月号(2000年1月1日発行)より]

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