がらにもなく宗教について/狩野博幸

 ジャン・コクトーは、芸術家を「真実を告げる嘘つき」と定義づけた。では、宗教者はどのように定義すればよいだろうか。

 こんな突拍子もないことを考えたのは、原田武『インセスト幻想 人類最後のタブー』(人文書院)を読んだからである。インセストとは近親姦のこと。近親相姦、だとお互いに望んだニュアンスになるので、いまは近親姦とすべきらしい。原田武はインセストの諸相を文学、宗教、歴史あるいは社会学者によるアンケートのなかに探っている。その第三章「インセストタブーと宗教」で、原田はイギリスのキャスリン・ハリソンの小説『キス』を例にあげる。主人公はプロテスタントの優秀な学者で、牧師でもある。この男は「神から授けられた権利により娘は自分のもの」であり、「神が娘を通じて彼に啓示を与えてくださった」という特権意識のもとに、「さして苦悶するふうもなく、わが娘と性関係を結ぶ」。当然のことに、娘は父が神の話をするたび気分が悪くなり、ある日、父に問う。「ほんとうに神がそうおっしゃったの? どうしてわかるの?」——と。この問いは悲劇的であると同時に根源的なものだ。宗教とは、神とは何か。換言して、宗教者とは何か、を問うているからである。

 原田は、インセストを奨励したゾロアスター教、あるいはキリスト教におけるフランスのカタリ派やドイツの自由心霊派などに言及しつつ、宗教論に深入りするつもりはないがと断ったうえで、「しかし、超絶者と強度のかかわりを持つ分だけ、宗教には人間を一種の思い上がりに導く危険がつねに伏在する」と慎重だが断乎として述べる。つまり、問題は、「超絶者と強度のかかわりを持」ったと認識する、その仕方にあるだろう。『キス』の主人公の牧師が鼻もちならないのは、単なる性欲を宗教者として語ろうとするからである。
 その危険性を知って、それを防ぐ手だてをほどこした宗教があることを、原田は竹下節子の『カルトか宗教か』(文春新書)を引用して告げる。チベット仏教の主流派であるゲーワルク派の僧には「四大戒律」がある。これを破った者は、ただちに破門される。その四つとは、人を殺やめぬこと、盗まぬこと、性関係をもたぬこと、そして最後に「覚醒して仏陀になったとか、仏陀の姿を見たとか、慈悲や愛や智恵などの霊的徳を成就したとかを自分で口にしてはならない。」——。

 この戒律に従えば、自分は釈迦やキリストの生まれ変わりであるとか、エル・カンターレであるなどと称する者たちが、いかに思い上がった存在であるかが、容易にわかる。

 ただし、かくいう僕は宗教は人間の病理の一種と考える罰あたりの大莫迦者なので、以下に述べることは話半分で聞いて頂きたい。

 禅僧の肖像画すなわち頂相のうち、僕が最も好きなのは大徳寺の開山の宗峰妙超(大燈国師)の像である。まさに堂々とした姿、などという解説があって愕いたが、いくつかある頂相中の国師の顔はいずれも、眉をひそめ、何か不安気ですらある。どこが堂々なものか。悟りすました、という表情とは対極のほとんど苛立っているようなその顔貌こそ、国師のいわんとしたことのように僕には思える。そのように自分を描かせる、そのことに国師はある意味で賭けているのではないか、とも。悟ろうとしてゆきつくことのできない己れを知る、国師はそれを寿像として遺そうとしたのではないか。

 もう一つ好きな宗教画は、坂本満の著作で見たかくれ切支丹の礼拝図。稚拙というも愚かな下手糞なその絵の数々は、権威主義的なパードレがいない方が純粋な信仰を高めてゆけることを、僕に確信させてくれた。 ああ、どちらも去年の「ヒューマン・イメージ」展で並べたかったなあ。

[No.136 京都国立博物館だより10・11・12月号(2002年10月1日発行)より]

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