浦添の墓/久保 智康

 先ごろ沖縄を訪れた際に、那覇市の北に接する浦添市で発掘調査中の近世墓群を見学した。丘陵の斜面に百を超える横穴が穿たれ、中に遺骨を納めた厨子甕がいくつも並んでいる。琉球の葬制は、よく知られているように、遺骸を一定期間、墓室内に安置して、ほぼ骨だけになったらこれを洗骨し、厨子甕に納めて安置しなおす、というものである。近年は、丘陵地の開発に伴い、近世に遡る墓が時おり見つかり、発掘される事例も増えている。この近世墓群の場合、江戸時代前期にヤマトで作られ琉球に舶載された柄鏡を副葬しているものもあり、薩摩を介して江戸幕府の支配下にあった琉球の人々の生活文化の一端をうかがわせてくれる。調査を担当している市教育委員会の佐伯信之さんは、「おそらくこの墓は、王府に仕官していた下級士族クラスのものだと思います。」とコメントされた。

 「ところで・・。」と、佐伯さんは少し口調を変えて、僕を別の横穴へ案内して下さった。ビニールシートをめくって覗いたその中にあるものを理解するのに、それほど時間はかからなかった。二,三体分の人骨が、折り重なるように横たわっており、頭蓋骨部分には赤錆びた鉄ヘルメットが、また足先には黒く大きな軍靴が残っている。傍らには、銃剣や水筒らしきものも見える。1945年の終戦の少し前、沖縄では、日本で唯一、アメリカ軍と日本軍の地上戦があった。浦添は最初の激戦地で、横穴に眠る人たちも、この時に命を落としたものらしい。直接の死因を発掘結果から知ることは難しかったとのこと。認識票など身元を示すものも見つからなかったという。それにしても、これだけしっかりと装備していても、最期はほんの一瞬だったようで、合掌しながら、なんともむなしい思いにかられた。おびただしい人、町、村、そして首里城をはじめとする文化財まで、あらゆるものが失われた沖縄戦のことを、頭ではわかっていたつもりだったが、それがたんにイメージだけに過ぎなかったと、この時ばかりは思い知らされた。

 沖縄の発掘調査では、やはりしばしば「戦跡」が古い遺跡に先がけて現れるそうだ。しかしここまで生々しいのは珍しいと、別の担当の方が言っていた。このような遺骨は、沖縄県の国保援護課というところが、「戦争遺骨」として認定して引き取り、年に一度、荼毘に付しなおして、沖縄戦最後の激戦地、摩文仁の丘に埋葬されるという。この丘の先端まで追い詰められ、多くの人たちが海に身を投げた断崖がすぐ近くにある。

 琉球王、尚氏の墓である有名な「浦添ようどれ」も、沖縄戦で甚大な被害をこうむった。今年から来年にかけ墓室内部を発掘調査しており、近世墓のあと、こちらの方へ回った。これまでの前庭部の調査成果も踏まえて、二、三年後には、当初の状態に復元整備される予定と聞く。
 そこかしこに鎮魂の遺跡のある沖縄の一日だった。

[No.137 京都国立博物館だより1・2・3月号(2003年1月1日発行)より]

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