「曾我蕭白展」/冷泉為人

 春の特別展覧会「曾我蕭白—無頼という愉悦—」は、大いなる好評のうちに終了したと聞く。総入場者は、前の若冲展に及ばなかったものの、四万六千人程を数え、展覧会図録にいたっては九千五百冊余という、ほぼ五人に一人が購入したことになる。

 ここに、今回の特別展の意味が集約されており、企画者の意図も充分に理解されたということではないだろうか。つまり蕭白画の特色である怪醜表現は「無頼という愉悦」である。これに興味を示した人は、若冲ほどに広くはなかったかわりに、強く、深く魅了された人が極めて多かったということである。そしてまたそれを新聞各紙は好意的に、「江戸期異端画家に光」「十八世紀の奇才」「円山応挙が、なんぼのもんぢゃ」「曾我蕭白 無頼という愉悦」「奇想天外 世界へようこそ」、などと報道したのである。

 今回の「蕭白展」には約百二十点ほどが展示された。従来からよく知られている作品をはじめ、新発見や未展示の作品が含まれる。これらの中にはアメリカのボストン美術館や同じくアメリカの個人所蔵のもの、さらにイギリス、ドイツからの里帰りの作品もあった。

 これらの展示は「久米仙人図屏風」「竹林七賢図襖」にはじまり、メイン展示の「林和靖図屏風」「群仙図屏風」「富士・三保松原図屏風」など、文字通り、蕭白画の代表作を経て、最後に「楼閣山水図屏風」「月夜山水図」で終る。これら中核になる作品の間に、蕭白画の特色である刺激的な怪醜表現の作品、伝統的な室町水墨画風の山水画や、大胆な筆致と濃墨を駆使した人物、唐獅子表現などが展開する。

 これらを観覧し終ると、通常の展覧会で感じる、ああ良かったという満足感よりも、大きな疲労感を覚えたであろう。これは精神の緊張が求められたからである。すなわち怪醜表現や濃密な絵画に刺激を受け、精神が高揚、興奮させられ、疲労を覚えたのである。

 この疲労の原因のひとつに、蕭白画の画面構成、すなわち画面いっぱいに描写対象を点綴する描法がある。つまり作品の描写対象を細くひとつひとつ、しっかりと見ていくという集中力が求められる。これが疲労につながる。

 さらに「らしくない」表現が多いこともあげられる。すなわち蕭白の描く、子供は子供らしくない、美人は美人ではなく狂女に、聖人、賢人、高士もおよそそれらしくなく、時には漫画的な人物表現、痴呆人物になっている。鳳凰、鶴、孔雀、龍虎、唐獅子にしても、我々が知っているそれらの絵画、殊に応挙の写生画とはかなりかけ離れた表現になっている。この「らしくない」表現が違和感を生じ緊張感を醸成することになる。これがまさに蕭白の目指したところでもある。そしてこれはまた無頼を承知の上、無頼的な行動、表現をするのである。この蕭白の絵画を愉しいとする者と、性に合わないとする者とに分かれる。いずれにしても蕭白は何事も納得したところで、「鬼」「鬼神」になって「狂」を演じるという「知的遊戯」を上手に我々に見せたのである。

[No.148 京都国立博物館だより10・11・12月号(2005年10月1日発行)より]

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