「花入などに転用された銅鐸」/難波洋三

 銅鐸には、出土後に手を加えて花入や水指などとした例がかなりある。その数は、私が気付いたものだけでも42個、未知の例を含めれば50個以上、すなわち出土総数の1割以上になると考えられる。手の加え方はさまざまであるが、小型銅鐸には、身の片面の下部に小孔を穿ち、これに金具を付けて掛花入とした例が多い。全高が40㎝程度あるいはそれ以上ある中型銅鐸の場合は、身の片面に大きな孔をあけ、床に据え置いた状態でそこに花を飾る花入とした例が9個と最も多く、鈕や身を切断して花入や水指とした例もかなりある。ただし、大型化が著しい近畿式銅鐸や三遠式銅鐸はこのような転用が難しかったようで、近畿式銅鐸を横に切って上半部を花入とした例が1個あるだけである。

 茶の湯で使用する花入、建水、水指などとして中国や東南アジアで作られた銅器が珍重されていたことが、銅鐸を花入などとして用いる契機となったと考えられるが、このような転用はいつ頃なされたのだろうか。転用年代が明確なのは出土地不明の辰馬考古資料館四〇九鐸で、直良信夫によれば明治初年頃に茶人が鈕を切って花入に改変したという。このほか、以下の例も参考となる。寛政十二年(一八〇〇)没の春田永年の著と推定されている『観古集』所載の土佐国大埇出土銅鐸は、鈕を切断して水指に改変しているようである。

 文政八年(一八二五)刊行の『耽奇漫録』所載の谷文晁蔵鐸は、片面の身の上半を壊して花入に改変している。天保十三年(一八四二)刊行の『古今要覧稿』にみえる鈕のない流水文銅鐸も、花入などに転用したものであろう。淡路島出土の中ノ御堂鐸と中川原鐸は、いずれも片面の身の下部に花入に転用するために出土後に穿った孔があるが、前者は貞享三年(一六八六)年出土、後者は元禄年間(一六八八〜一七〇三)出土という。宝暦年間(一七五一〜一七六三)出土の岡山県足守鐸は、出土後に鈕が切り取られているが、これも花入などへの転用と関係する加工の可能性が高い。

 一方、明治以降出土した銅鐸には、出土後にこのような改変をうけた確実な例が今のところない。明治になってしだいに銅鐸自体の古器物としての評価が高くなり、手を加えない状態で流通し所蔵されることが多くなったと考えられる。以上から、銅鐸の花入や水指などへの転用の多くは17世紀末から19世紀中頃におこなわれたと推定できる。なお、転用の開始は、もう少し遡る可能性がある。

 小さな穿孔程度の加工はまだしも、身や鈕が切断されたり、身に大きな孔を穿たれたりした銅鐸は、痛ましい。しかし、この頃に出土した銅鐸には、文化五年(一八〇八)京都府比丘尼城出土の1個や寛政六年(一七九四)以前出土の鳥取県破岩鐸のように、梵鐘などの原料として溶解され消滅したものも少なくなかったに違いない。無残な姿ではあれ、銅鐸を今に伝えてくれた先人に、やはり感謝すべきなのであろう。

[No.149 京都国立博物館だより1・2・3月号(2006年1月1日発行)より]

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