「ほんもの」が放つ素晴らしさ/佐々木丞平

 現代の忙しいライフスタイルの中で、自分の自由に使える時間がはなはだ少なくなっているのが我国の現状である。もともと少ない自由時間が、ある日突然手に入ったとしたら、それを有効に使いたいと誰しもが思うであろう。私自身も出張先での会議が思っていたより三十分早く終わったりすると、この近くで何か展覧会をしていなかっただろうか、と慌てて調べたりすることがある。

 忙しい現代人が、自分の教養を磨きたい時、あるいは、ほっと一息ついて美の世界を見て休みたい時、そこに常に素晴らしい作品展示があったら、どんなによいだろうと常々考えている。

 こうした考えから、現代のライフスタイルに合わせた対応として、京都国立博物館では、各分野の学芸員に充実した平常展示をお願いしている。いつ館を訪れても、特別展と変わらない作品群を見て頂けるよう、展示内容の充実を図る努力を重ねてもらっている。

 美術作品そのものには、テレビの画面や印刷物で見たのとはまた違う、「ほんもの」だけが放つ美しさ、素晴らしさの光のようなものがある。じかに見ることによって知ることのできる素材感や存在感を味わう醍醐味は、博物館に直接足を運んだ者のみが得ることができる特権である。

 私自身は、嘗て写真資料のみで知っていた作品を、じかに見ることができた時に、想像していた大きさと異なっていて、驚いたことがある。こうしたことも「ほんもの」を見るときの楽しみの一つである。なぜこの作品は実寸よりも遥かに大きなスケールを感じさせるのだろうと、様々な要因を考察することもある。

 印刷物などではなかなか見えないが、作品に押されている印は、使用により縁から磨耗していくため、例えば小さくなった印形から、その作品が作者の晩年の作品であることを知ることもできる。

 あるいは、写真では分かりにくかった素材感が、実物を見てみると、例えば毛足の長い艶のある絹地の絖であったりすると、印象が大変かわる時もある。「ほんもの」を見る時には、いつもこうした意外性や新しい発見、感激が得られるものである。

 そして何よりも「ほんもの」をじかに見ることで、感じることのできる輝きは、我々の感性を豊かにしてくれるものである。

 作品に目をむけ、心を向けるという行為は、対象物を理解することに繋がり、貴重な文化財はその良さを認識する人々の存在を得て、保護、保存されていく。とりもなおさず、本館を訪ねてくれた鑑賞者一人一人が、我国の貴重な美術品の存在を支えてくれているということでもあるのだ。そうした鑑賞者もまた「ほんもの」である。

[No.150 京都国立博物館だより4・5・6月号(2006年4月1日発行)より]

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