展示のありかた—日々なやむこと—/大原 嘉豊

「スカスカやな!」
「あともう一幅並べたら、締まるのに…」

 私が、展示替を終えると、先輩方から聞こえてくる「忠告」である。
 別に作品を出し惜しみしているわけではなく、一応、理由はある。

 まず消極的理由としては、私がまだ全担当作品の芸術的特性を熟知していないため、不用意に多く並べると、全体のバランスが悪くなり、個々の作品の持ち味を殺しかねないからである。
 次に、積極的理由として、今挙げた理由の裏返しになるのだが、展示密度が高いと、どうしても隣接作品が鑑賞に影響してくる。特に「美術鑑賞」しようとする方には、うるさく感じられるであろう。私も美術史学専攻の人間だけに、やはりその気持ちが働くのである。

 平常展示で国宝の曼殊院蔵の黄不動像をお出ししたことがあるが、その時、中心を決めるために最初に一幅だけお懸けした。すると、もう本当に虚空に浮かんでいるかのような感覚があり、円珍が感得したという伝説もウソではないなと感動を新たにした。ところが、両脇に他の作品を懸けると、その感じが大幅に消えてしまって残念に思ったものである。

 アンケートに、東京国立博物館(以下東博)の国宝室みたいなのを作れとのたまうご意見がちょくちょく混じるのも、ある意味納得できる。最初東博に国宝室ができると聞いたとき、当時の私は首を傾げたが、いざ実際に見ると、「国宝」というテーマ設定はともかく、鑑賞へ集中に誘う空間は好ましく感じられた。
 しかしである。収蔵品・寄託品に一級品が多いため誤解されているかもしれないが、博物館は美術館とは使命を異にしている。審美性も重要だが、作品のもつ歴史性にも光をあてないといけないのである。美術館では解説キャプションを廃止するところも昨今あると聞くが、これは「美は各自で感じるものだ」という一種の観念を前提しているのだろう。が、社会教育機関としての博物館でその態度は存在意義を問われる、と信じる。

 作品を並べるというのは、極めて人工的な行為である。そこに一定の原理があるわけではなく、その原理を創り出すのであって、ここに学芸員の肝脳を尽くす本分がある。展示・キャプションが違ってくるのは、担当者の理念が反映しているからである。同じ作品群を展示で扱いながら、私も「前任者とは違う」という批評(批判?)を受けている。

 なお、先ほど「国宝室」に引っかかるといったのも、収蔵の富を誇る東博ならではの企画であって、国宝の絶対数が限られている以上、他館には簡単にマネできるものではないからである。国立博物館といえども、四館それぞれに歴史やカラーは違う。京都国立博物館らしさとは何か、展示とはどうあるべきか、というようなことをつらつら考えながら、平常展示のプランをたてている今日この頃である。

[No.157 京都国立博物館だより1・2・3月号(2008年1月1日発行)より]

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