坂本龍馬の絵心/京都国立博物館考古室長 宮川禎一

 今年の大河ドラマは「龍馬伝」。それにまつわる一文である。

 坂本龍馬の遺品の中心は龍馬が土佐の姉乙女に出した多くの手紙である。京都国立博物館には国の重要文化財に指定された手紙が多く残されていて、龍馬の心情を窺う格好の材料となっている。昭和六年に坂本家から博物館に寄贈されたものだ。もしもこれらの手紙が残っていなかったとしたら、小説もドラマも中身の薄いものになっていたであろう。

 さて本題は龍馬が描いた「霧島山登山図」である。慶応二年十二月四日に長崎の小曽根英四郎邸で書かれた姉乙女あての手紙にこの絵は描かれている。慶応二年春、伏見寺田屋で負った手傷の養生を兼ねて龍馬とおりょうは鹿児島旅行に出かけた。いわゆる「新婚旅行」とされる旅である。その際、二人で霧島山の高千穂峯に登山した際の楽しそうな様子を解説文とこの絵をもって家族に知らせたのだ。大河ドラマでもこの霧島山登山の様子は取り上げられるはずである。

 最近、筆者はこの「霧島山登山図」は龍馬のオリジナルでは無いのではないかと考えている。もちろんこの手紙に描いたのは龍馬で間違いない。しかしこの絵には不審な点が多い。龍馬にしては上手すぎる。何か変だ。

 筆者もかつて龍馬のあとを辿ってこの霧島山に登ったことがあるが、山麓の登山口からはこのようには見えない。自分が登った山は描けないものである。この構図は高千穂峯の北西側にある中岳の山頂付近から描いたか、あるいは心の中で風景を再構築したかである。雪舟の国宝「天橋立図」が日本海上空からの視点で描かれているようなものだ。すなわち龍馬はとても空間認識能力が高い、絵が上手い、ということになるのだが、それは本当だろうか。

 疑問が生じたきっかけは霧島山図のすこし右側に描かれた小さな「天逆鉾」の絵である。正面と横から描写されたその天逆鉾図は記憶だけでは絶対描くことの出来ない詳細さである。龍馬は「何か」を見て写しただろう。彼は絵師ではないので、スケッチ帳を持ち歩いてこまめに描いたとも考えにくい(司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」ではそうなっているが・・)。

 実はこころあたりの作品が長崎で見つかっている。幕末長崎の南画家木下逸雲(1800〜1866)の「霧島山に登るの記」(文政十一年)という巻子にこの天逆鉾図が大きく正確に描かれていたのだ。大小の差こそあれ、その構図は龍馬の天逆鉾図と一致している。龍馬はこの逸雲の絵を見たのではなかろうか。しかしその巻子には霧島山の全景図は描かれていなかった。木下逸雲は文政年間に霧島山に実際に登山して文と絵による記録を残している。画家の性分として霧島山の全景図を描かなかったとは思えない。必ず描いたはずである。

 筆者の想像だが、木下逸雲の「霧島山真景図」が小曽根邸の床の間に掛かっていて、それを龍馬が手紙に描き写したのではなかろうか。「霧島山登山図」の山腹の線描表現はどこか南画風にも見えよう。

 残念ながら想定した「霧島山真景図」は現在の小曽根家にも、長崎の主要な美術館・博物館にも残っていない。どこかにまだ保管されているのか。すでに失われたのか。そもそもそんな絵は無かったのか。将来に課題として残るのである。

[No.167 京都国立博物館だより7・8・9月号(2010年7月1日発行)より]

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