揚州時代の藍瑛/京都国立博物館学芸部長 西上 実

中国の浙江杭州の出身で、明末清初に活躍した藍瑛(らんえい・1585〜1664後)は、日本にもなじみの深い画家である。その作品はわが国に多数舶載され、池大雅をはじめ、江戸時代の南画家たちにも大きな影響を与えている。

 民間の職業画家であった藍瑛の生涯については不明のところが多いが、八十有余の一生の大半を杭州で過ごしたことは間違いない。それ故、浙派(せっぱ)の殿軍(末期の代表的人物)とみなされ、董其昌(とうきしょう)の尚南貶北論を根拠とする浙派汚名化の進行とともに、その画業が貶められた悲運の画家でもある。

 しかし、実際にはその画風は多彩で、江蘇蘇州や松江に由来する文人画風を大胆に取り入れ、決して浙派の範疇に留まるものではない。また行動範囲も幅広く、地元浙江を遠く離れ、中国全土を遊歴している。

 近年、藍瑛の画風影響に関連して注目されるのは江蘇揚州での活動である。彼の揚州滞在は、明末の崇禎十四年(1641)・十五年頃のわずかな期間に限られるようであるが、当地でかなりの人気を博し、山水画冊を中心にいくつもの精品を残している。

 わが京都国立博物館には、藍瑛が辛巳の年、すなわち崇禎十四年の秋、揚州で季宣なる人物のために描いた花卉図冊(個人蔵)が寄託されている。

 後の揚州八怪を思わせるような軽妙な墨筆で描かれ、時に淡彩を点じた花卉十図、花鳥二図の計十二図からなる。その画風は二十代前半の藍瑛が松江の孫克弘(そうこくこう)に師事して会得した沈周(しんしゅう)、陳淳(ちんじゅん)等の蘇州文人に由来する写意的花卉を基調とするもので、第十一図の牡丹図に記された藍瑛の識語によると、揚州滞在中、季宣にばったり出会い、酒席を設けて歓待され、酔いに任せて描いた席画であるという。

 内箱には、明治から大正にかけての文人墨客たちの跋文が連なり、日本の好事家の眼を楽しませていたことがわかるが、陸時化『呉越所見書画録』(乾隆四十一年〈1776〉上梓)巻五に、「十二釵冊」として著録されており、彼の地においても早くから注目された名冊である。

 明清鼎革の際、清軍に抵抗した揚州は徹底的な弾圧を被り、塩商の富を背景とする自由奔放な文化芸術活動も一時杜絶するが、まもなく商業都市としての繁栄を取り戻し、江南画壇の一大中心地となる。一方、兵乱を避けて故郷杭州にもどった藍瑛は、花卉図においては、南宋院体画を手本とする装飾的工筆画に回帰し、この「十二釵冊」のような文人好みの写意的花卉図はほとんど描かなくなってしまう。それゆえ、一面的に藍瑛は評価されるのであるが、この画冊は、そうした偏見を打ち破り、清初に勃興する揚州画壇の先駆者としての功績を改めて問い直す意義を持っている。

 以上は、今年三月十二日、香港芸術館に於ける「明月清風」展関連講座で話した内容の要約である。

[No.171 京都国立博物館だより7・8・9月号(2011年7月1日発行)より]

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