うらんだーのやちむん「金琺瑯」/京都国立博物館工芸室長 尾野善裕

 五摂家筆頭の近衞家に伝来し、現在は陽明文庫の所蔵品となっているこの器、本年春の特別展覧会『王朝文化の華 陽明文庫名宝展』にも出陳されていたから、覚えておられる方も少なくないだろう。享保13年(1729)4月3日の茶会で、近衞家凞(1667〜1736)が用いたという曰くつきの菓子鉢で、何故か古くから「金琺瑯」と呼ばれている。展覧会では、この「金琺瑯」という呼称に注目し、中国の宮廷工房で上絵付された色絵磁器「琺瑯彩」であることに由来するのではないかと考え、ささやかな仮説を図録の片隅に書かせてもらった。

 その際、家凞の侍医であった山科道安(1677〜1746)の著『槐記』享保13年4月3日条を根拠史料として用いたのだが、そこからは薩摩藩島津家から息子の家久に贈られた「金琺瑯」を、父親の家凞が譲り受けていたことが読み取れる。そして、もし筆者が推測したように、「金琺瑯」が中国の宮廷工房で作られたものであるならば、それが日本へもたらされた経路としては、まず琉球経由としか考えられない。何故なら、江戸時代の日本と中国(清王朝)の間に正式な国交はなく、基本的に日中関係は長崎を介しての民間貿易でしかなかったからである。宮廷工房が皇帝や宮中の専用品を作る部署であることを考えれば、その作品が民間貿易で海外流出するということなど、よほど国の統治が乱れていたのでもない限り、ありえないことだろう。

 しかし、清王朝に朝貢していた琉球であれば、中国皇帝から下賜されていたとしてもおかしくはなく、その琉球を事実上従属させていた薩摩藩であれば、琉球を介して入手することも可能だったに違いない。そして、まさにその薩摩藩から献上されているというのだから、琉球経由での日本渡来説はなかなか魅力的な仮説ではないかと思われた。

 確証はなかったものの、締切期日が迫っていたこともあり、図録の原稿はここまでの推論で「えいやぁ」と書いてしまった。ただ、一つ気にかかっていたことがある。「金琺瑯」の内面には、「壽」と「萬天青斉」の漢字5文字が配されており、どう見たって中国の〈やきもの〉でしかないのに、『槐記』の中に「和蘭陀ノ焼物ナリ」という記述があることだ。

  全く理解不可能だったので、図録の中では『槐記』の記述に「明らかな誤謬もないではないが」と適当にすかしておいた。ところが、先日調査でお邪魔させていただいた折、沖縄県立埋蔵文化財センターの仲座久宜さんから驚くべきことを教えられたのである。沖縄(琉球)では、よくわからない外国のことを、オランダ(ネーデルランド)に限らず「うらんだー」と呼ぶことがあるから、琉球人であれば「外国の〈やきもの〉」という意味のことを「うらんだーのやちむん」と表現したのではないかというのだ。そうだとすれば、「うらんだーのやちむん」が薩摩人を介して京都人へと伝聞されていく過程で、「和蘭陀ノ焼物」に化けてしまったと考えることは、いとも簡単である。つまり、「和蘭陀ノ焼物」という記述そのものが、琉球経由での「金琺瑯」の日本渡来を暗示しているのではないか、ということだ。

 状況証拠に過ぎないと言ってしまえばそれまでだが、妄想や偶然だとして斥けるにはあまりにも魅力的。そう思ってしまうのは、あながち筆者の贔屓目ばかりでもないだろう。

 (沖縄県埋蔵文化財センターでの調査は、科学研究費補助金助成研究「「鎖国」下の日本における清朝陶磁の受容とその影響に関する調査研究」(課題番号23520141)の一環です)


[No.176 京都国立博物館だより10・11・12月号(2012年10月1日発行)より]

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