「魅惑の清朝陶磁」展に寄せて/鹿児島大学教授 渡辺 芳郎

 江戸時代、肥前地方(現在の佐賀・長崎県)において磁器の国内生産が可能になり、中国からの輸入に頼っていた中世までとその流通の様相は大きく変わる。近世遺跡からの中国陶磁の出土は、国内産陶磁に比べると圧倒的に少なく、あくまでマイナーな存在である(ただし明・清と冊封関係を結んでいた琉球(沖縄)を除く)。しかしそれでも18世紀後半以後になると清朝陶磁の出土が増加することが知られている。本展の冒頭において展示された遺跡出土の清朝陶磁のコーナーは、現在の近世考古学の一般的な理解の確認とも言える。

 しかし本展の特色は、その一般的理解を踏まえつつ、考古学資料として現れにくい、近世日本における清朝陶磁の流通の様相について、伝世品を中心としながら明らかにしている点にあるだろう。考古学資料としての陶磁器は、基本的には、破損して使えなくなり、廃棄されたものである。一方、陶磁器の中には、丁寧に保管され、伝世されるものがある。それは高い価値を付与された茶道具であったり、希少な高級輸入陶磁であったりする。本展では、まさにそのような清朝の高級陶磁に着目している。

 その中でも筆者の専門領域とも関係して注目したいのが、近衞家の陽明文庫に伝わる金琺瑯高足杯である。この高足杯は、近衞家熈の侍医・山科道安の『槐記』享保13年(1728)4月3日の条に記されている「先年 薩州より献上」された「金琺瑯有蓋把椀」と考えられる。また文化4年(1807)の琉球館文書から、島津家が琉球を通じて清朝官窯製品を献上用に求めていることが判明している。つまりこの高足杯は、中国→琉球→薩摩というルートで近衞家にもたらされた可能性が考えられる(以上の推測については『京都国立博物館だより』第176号掲載の尾野善裕氏「うらんだーのやちむん「金琺瑯」」をご参照いただきたい)。

 島津家と近衞家との関わりは、12世紀、近衞領・島津荘(宮崎県都城市)の下司職に初代・忠久が補任されたことに始まる。その関係は中世・近世を通じてさまざまな形で現れるが、宝永元年(1704)に島津継貴の娘・亀姫が、正徳2年(1712)には吉貴の娘・満君がそれぞれ近衞家に嫁し、婚姻関係も結ばれている。前述の『槐記』の記事が出てくるのは、そのすぐあとである。亀姫・満君はともに夭逝したので、婚姻そのものは長続きしなかったが、「薩州より献上」されたのは、島津家と近衞家がきわめて緊密な関係を持っていた時期とほぼ符合する。またその時期が、考古学資料としての清朝陶磁が少ない18世紀前半であることも注目される。

 全国の大名で第2位の石高72万石を有する島津家、琉球王府、五摂家のひとつ近衞家、そしておそらく徳川将軍家なども含めて、当時の社会階層最上位の人々の間で、陶磁器の遣り取りが行われていたことが、金琺瑯高足杯から推測できるのである。そしてそれは、破損し、廃棄された考古学資料からは知ることがきわめて難しい最高級陶磁器の流通の一端を示している。

 現在、私たちのまわりにはさまざまな陶磁器がある。数十万円もするティーカップセットもあれば、100円ショップで売っているマグカップもある。前者だけ取り上げても、あるいは後者だけでも、現在の陶磁器の全体像は語れない。それは江戸時代についても同様で、遺跡出土の廃棄品もあれば、最高級の伝世品もある。片方だけでは近世の清朝陶磁のあり方は語れない。本展覧会では、近世の清朝陶磁器を扱いつつ、より広く陶磁器の生産や流通の全体像を考える上では、伝世品だけでは十分ではなく、また考古学資料だけでも一面的であり、両者を含めた複眼的な視点や多様なアプローチの必要性を示していると言えよう。

[No.182 京都国立博物館だより4・5・6月号(2014年4月1日発行)より]

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