時を超える想い―「作品」が伝えるもの―/京都国立博物館研究員 福士雄也

 あるお寺のご所蔵作品を調査させていただいた時のこと。その作品は、箱蓋の墨書によればかの尾形光琳(1658~1716)が描いたものということになっていた。とはいえ、未知の光琳作品がそうそう簡単に世にあらわれるはずはない。正直なところを言えば、二巻からなるその巻子作品を広げる前から、光琳筆の可能性は限りなく低いだろうと思っていた。不遜にもたかを括っていたのである。

 そしていよいよ巻緒を解いて広げていくと――、果たして光琳の作品とは言い難いものであった。その描写はたしかに光琳風を意識しているようだったが、だからといって一考を要するとか判断に迷うというようなことはなく、手控えの調書に即座に「伝尾形光琳筆」と記した。

 巻末にたどりつくと、そこには堂々たる「光琳画」の署名と印が据えられている。せめて無落款であれば、というかすかな望みも断たれてしまった。落款がなければ、光琳ではないもののその画風を慕った別人による十八世紀の作品、という言い方で救うこともできるが、これでは完全に「クロ」である。とりあえず寸法など基礎データを取れば、この作品の調査は終了だな、などと考えていたとき、末尾の奥書が目に飛び込んできた。そこには、寺の什物であることを記したのち、次のような奉納の経緯が書かれていた。

寛政五年丑四月九日
釋慈光信女 二十二歳終
同年同月日
同 一瞬童子 當歳
右為追福奉寄附者也
  佐々木甚三郎
旹寛政九年巳三月 施主  父 閑空(印)
  母 岡月(印)

 寛政五年(1793)4月9日に22歳の若さで亡くなった女性とその子供の冥福を祈り、この巻物を寺に納めたというのである。奉納したのは、この女性の夫と思われる人物とその両親である。子供は「當歳」、つまり数え年一歳で母親と同じ日に亡くなっているから、察するに出産時の出血等何らかの事故によって母子ともに助からなかったのだろう。子供の戒名が「一瞬童子」であるのは、まさに生まれてすぐに亡くなったことを意味している。出産が現代とは比べ物にならないほど大きな危険を伴っていた時代のこととはいえ、家族の悲嘆はいかばかりであったろうか。

 二人の冥福を祈り、四年後に夫と両親はこの巻物を寄附した。あるいは佐々木家の家宝であったろうか。入手経緯も時期も分からないが、ともかく彼らにとって大切な品であったのは間違いないだろう。

 この二巻に込められた祈りを思うとき、「美術」あるいは「作品」とは何なのかと考える。それは、いわゆる「マージナルな領域」に関する問題でもなければ、「視覚文化」や「装置」「機能」といった類の言葉とも無縁な、より根源的な事柄である。むろん、宗教遺品を多く扱う研究者であればこの種の作品には日常的に出会うだろう。いや近世絵画にあっても、国宝「楓図」(智積院)は豊臣秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために長谷川等伯に描かせたものであった。だが、決して美術史の俎上に載せられることのない作品だからこそ、かえってその真摯な想いに心打たれるのである。

 美術史学の価値基準とは関わりなく、作品にはそれを取り巻く人々の想いが込められている。筆者にはそういう当たり前の認識と、作品に対して払うべき敬意とが欠けていた。それに気付かせてくれたこの作品のことを、決して忘れることはないだろう。

[No.190 京都国立博物館だより4・5・6月号(2016年3月25日発行)より]

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