田能村竹田の見聞きした書跡/京都国立博物館主任研究員 羽田 聡

 いまから二、三年前、江戸時代を代表する文人画家・田能村竹田(一七七七~一八三五)の作品の寄贈をうけるにあたり、絵画担当者に頼まれ、画上の賛について調べたことがある。大分県教育委員会が発行した『田能村竹田 資料集著述篇』をペラペラとめくっていると、お目当ての賛のほか、『屠赤瑣々録』とよばれる備忘録、および日記が目にとまった。

 たとえば、橋本経亮(一七七五~一八〇五)の随筆『梅窓筆記』に「一品経和歌懐紙」(国宝、京都国立博物館蔵)の伝来に関する話があるように、近世の著述には作品の来歴にまつわる記載がまま見られるため、期待まじりにこれらを読んでみた。すると、備忘録には、伊丹のさる旧家が所蔵していた下条兵庫助あての武田晴信書状、唐招提寺から流出した処分状のほか、色定法師一筆一切経の奥書などが写されており、書跡の担当として「竹田さん、ありがとう」と思わずつぶやく。「これは当たりだ」と確信し、日記のほうにも目を通すと、文政六年(一八二三)四月十六日条につぎのような記事をみつけた。

席上ニ京客アリ、三品氏ト云[三品伊賀守金道/ノ族、小石玄瑞(ママ)ノ近隣]、其人曰、一京人西ノ洞院時慶卿ノ日記ヲ蔵ス、慶長ヨリ寛永ニ及フ処々残闕アリ、所存十九巻ナリ[時ニ慶卿ノ孫時名卿アリ、此卿ヲ風月ト称ス、其子放蕩/ニテ、多ク旧記ヲ売却ス、此日記モ其内ナリト云フ]、

 西洞院時慶(一五五二~一六三九)の日記『時慶記』について、竹田と懇意であった大坂の田中鶴翁の屋敷で同席した、三品金道なる者が語ったところをしるす。金道は代々、西洞院夷川に住する刀鍛冶で、釜座夷川に居を構えた医師・小石元瑞とはたしかにご近所だ。彼が言うには、京都のある人が慶長から寛永年間にいたる時慶の日記、十九巻分を所蔵している。それらは時慶の子孫であり、風月と号した時名(一七三〇~九八)の子が放蕩のかぎりを尽くしたため、売却した家記の一部なのだという。

 現在、『時慶記』は、自筆本二十冊が天理大学附属天理図書館と宗教法人本願寺とに分蔵され、徐々に活字化が進んでいる。後者には、天正十九年(一五九一)より寛永六年(一六三九)にいたる十九冊があり、これは竹田が金道から伝え聞いた分に相当する可能性がたかい。とするなら、西洞院家から流出した時代、さらには経緯を知りうる同時代人の貴重な証言といえよう。ただ、残念なのは、日記を所蔵する「一京人」をして、「伊達政宗や加藤清正が在京中、この人の家に投宿したことをしめす書状がある」と追記するのだが、その人物を特定しきれなかったことである。

[No.190 京都国立博物館だより7・8・9月号(2016年7月1日発行)より]

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