有形は無に如かず/花園大学名誉教授 竹貫元勝

 今年は臨済禅師一一五〇年遠忌、来年は白隠禅師二五〇年遠忌にあたる。周知のように三宗において展開する日本の禅宗であるが、その内、臨済義玄を祖とするのが、臨済宗と黄檗宗の二宗である。今日、臨済宗十四本山と黄檗宗一本山の十五本山からなり、臨済禅師に視点を置けば、教団的には一祖二宗一五派として展開する。「臨済宗黄檗宗連合各派合議所」が設置され、『臨黄会報』を発刊し、また同所による『臨済宗黄檗宗宗学概論』(平成二八年刊)の出版があり、二宗一五派の流れは、臨済禅師の一源にあることを看取し得る。

 かかる「臨黄」上げての催が、今回の臨済禅師と白隠の遠忌を冠した「禅─心をかたちに─」の特別展であった。それらの「かたち」は、平成知新館の五室において、「禅宗の成立」「臨済禅の導入と成立」「戦国武将と近世の高僧」と、インド─中国─日本に東漸する禅の歴史的展開を語り、さらに、「禅の仏たち」「禅文化のひろがり」において、禅文化を特集する。実に、国宝一九件、重要文化財一〇三件を含む、二二六件の名品からなる展示であった。

 禅では「無」とか、「空」といって、禅の心、悟の心を説く。それは固定的な実体のないことをいうのであり、無相なのである。その無相の心が「かたち」、すなわち実相として捉えうるものが、禅の文化財である。その「かたち」は、坐禅修行に依り師から弟子へと師資相承される法灯と、衆生済度の教化活動、檀越外護者との関わりなどを背景にもっている。そうした史的展開を踏まえ、しかも名品揃いでの見事な展示を観覧し、鑑賞した人は、知的満足度の高い機会を得て、至福の一時であったであろう。

 しかし、愚堂東寔は、「縦雖千万箇、有形畢竟不如無」(縦え千万箇と雖も、有形は畢竟無に如かず)(『大円宝鑑国師語録』)と言って、禅の「かたち」は「無」にまさり、無を超えることはないとする。この一言は、心に銘記しておく必要がある。

 頂相は禅の画を代表するものの一つであるが、絵像のその人自身の意識は、「絵予幻質請賛」(予が幻質を絵いて賛を請う)など、「幻」という語で示していることをしばしば目にする。幻質は画かれた絵像を指すが、また画かれているその人自体が幻であることをもいう。夢窓疎石は、五言絶句の自賛に、

本質尚如幻、影像是何容(本質は尚幻の如し、影像是れ何の容ぞ) 欲見我真相、擘破太虚空(我が真相を見んと欲すれば、太虚空を擘破せよ)

と、書いている。これは『夢窓国師語録』に収載される自賛で、天龍寺蔵のそれは「欲見我真相」を「要見我真相」とする。

 自分自身は実在しない幻質であり、絵師が見事に画いたその絵像のすがたかたちは、何の容なのか。我が真相を見たいならば、太虚空を擘破することだと、夢窓はいう。「擘破太虚空」は、虚空をつんざきやぶることで、同じことを南浦紹明は「虚空剥烈」(『大応国師語録』崇福寺録)というが、まったく煩悩がなくなることの意味で、つまり見性すること、悟ることをいう。禅の「かたち」は、それを見る人に己が心の究明があってはじめて、真に見たことになるということである。「有形畢竟不如無」の本意は、ここにある。

[No.192 京都国立博物館だより10・11・12月号(2016年10月1日発行)より]

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