友松画のゆるいたわみに思う/美術史家 脇坂 淳

 この春の「海北友松展」を十六万五千人が鑑賞した。何と読むのだろうと言っていた人の多くが「かいほうゆうしょう」を知った。「刀を握るはずだった手は」「この絵師ただものではない」といったキャッチフレーズに誘われて。

 孫の友竹をして「誤りて芸家に落つ、願わくは時運に乗じて武門を起こし」と言わしめたばかりに、友松の半身は武人であるかのイメージがつきまとう。そのため一気に筆を走らせた直線をあたかも刀を振り下ろした気迫の現れと思ってしまう。たしかに気迫は込められているが、果たして友松は武門再興をいつまでも引きずっていたのだろうか。

 友松の画事が知られるようになるのは還暦の頃からで、確かな遺作は六十五歳以降亡くなる八十五歳までの十五、六年の間に集中している。それまでの六十年いったい何をしていたのか、狩野元信に学んだとか、永徳に師事したとか伝えられるものの、画歴の痕跡を示す作品は数少なく、謎はなかなか解けないでいる。それでも永徳の他界を機に狩野派を離れたのでは、とする今回の特別展での見解は示唆深い。時に友松五十八歳。

 輪郭を明瞭な稜線で括り、何本も筆を重ねた皴で立体感を表す岩。傘を広げるように枝を伸ばす松樹、その根は地上へはみ出している。人物の纏う衣の襞を表す墨線は力強い打ち込みで始まる。こういった狩野の画法を身につけていた筈の友松がかなり速やかにその画法を脱ぎ捨てていく。直線的な筆線を曲線に変調していったとも言えよう。

 岩の作りは濃墨による刷け隈を多用し、没骨描で輪郭線をもたない丸みを帯びた形態へと変容させる。ゆるやかに湾曲させた大樹の幹を描き消し、伸長する枝葉の数を整理して松の葉叢も簡略化させる。根元の根上がり部分も形骸化。人物の衣文線は打ち込みをひかえ、むしろゆるやかに筆を下ろしてゆったり引きながら、時には止めの部分を撥ね上げたり撥ね下ろしたりする。

 素人というか無垢の状態で狩野の門を潜った友松を思うと、基礎的な技法を徹底して学びとり、身につけた狩野派様をそうそう容易に拭い去ることは難しかろう。しかし、還暦を機に武門再興の希い、そして狩野の画法、ともに放下して新生芸家の道を開かんと決意したのではなかろうか。それにしても独自の画風を創出するには固有の造形性が具わっていなければならない。

 最晩年画の妙心寺に伝わる屏風を思い起こしてみると、「琴棋書画図屏風」の左端、渓流に架けられた石橋の反りにしたがって、その曲線の先には背を丸めて文読む老漢が佇み、老漢のもたれる老木も弧を描いて金雲の中へ伸びていく。ここに見られるようなゆるやかに湾曲する曲線が友松画には随所に認められる。「寒山拾得・三酸図屏風」の寒山が広げる経巻のゆったりしたカーブもそうであるし、「花卉図屏風」の牡丹の主軸が弓なりに反る形態にも現れたたわみの造形性、これこそ友松画の特性である。

 もちろん梅を描いて鋭角的に屈折伸長させた枝も見せる。が、胸を突き刺すような鋭い筆線ではなく、全体としては曲線の柔らかさ、たおやかさが勝っている。話題になった「月下渓流図屏風」(ネルソン・アトキンズ美術館蔵)も樹幹は下方が描き消され、渓流も下って次第にたゆたう。反り上がった石橋があるかと思えば、曲がりくねる地景に優しく丸い岩が点在し、主張のない余白、何とも薄暈けた背景、老梅を越して月影が浮かぶ。こうした角のないゆるいたわみの中に癒やされ、梅の香を聞いた人もいるに違いない。

[No.196 京都国立博物館だより10・11・12月号(2017年10月1日発行)より]

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