「鑑真和上と戒律のあゆみ」展によせて/龍谷大学 龍谷ミュージアム 岩田朋子

 「鑑真和上が京都へいらっしゃる!」(もちろん、ご本人ではなくて、唐招提寺蔵・国宝鑑真和上坐像。)そう聞いて、展覧会(2021年3月27日~5月16日)開催前から待ちきれない日々を過ごした、鑑真和上ファンは私だけではないでしょう。寺外での公開は12年ぶり、京都国立博物館では45年ぶり、私にとっては京の都での和上像との再会の機会でした。

 会場の中程、かつての出家者が瞑想した禅室か洞窟を想起させる薄暗い展示室がありました。そこには鑑真和上坐像や興正菩薩(叡尊)坐像[前期:白毫寺蔵/後期:西大寺蔵]が配されていました。後世の叡尊(1201~1290)らに相承された、「出家者かくあるべし!」という鑑真和上(688~763)からの教えが、時を超えて、確かに受け継がれた様を眼前にしているかのようでした。高僧像に囲まれ、空気までもが凛とした空間にその身を置いた時、スッと背筋を伸ばさずには居られない、自分の邪心を見透かされ懺悔せずには居られない、そんな心持ちになったことを思い出します。

 今回の展覧会について、私は「戒と律とは何か?」「唐の名僧鑑真によって日本にもたらされた仏教僧の育成システムと仏教僧の在り方。そしてそれが、如何に継承されたか」、このことに注目して拝見しました。この点においては、5回もの渡航失敗という艱難辛苦を乗り越え来日した鑑真、唐招提寺の中興の祖とされる覚盛(1194~1249)、西大寺を拠点とした叡尊、東大寺で戒律研究を行った凝然(1240~1321)、南宋から当時最先端の律研究とそれに基づいた儀礼を持ち帰った泉涌寺の俊芿(1166~1227)らを中心に据え、紹介されていました。そのうち、実際に鑑真が着用した袈裟(唐招提寺蔵)だけでも、「出家者が身につける衣(僧衣)」と、「教えの継承(法脈)」についての厳格な伝統をうかがい知ることができました。また、和上が依拠した『四分律』はもともと、法蔵部という僧団が伝持した生活規則の集成で、410~412年に漢訳され、唐の律師道宣(596~667)はこれに基づき多くの解説書を残しました。

 さらに、凝然の撰述で自筆ともいわれる「優波離唄」は、釈尊の直弟子のうち持律第一(律の第一人者)といわれた優波離(ウパーリ)を讃えた偈頌とその楽譜で、実際の布薩(規則に違反していないか確認するため15日毎に開催される反省会)などに用いられていたようです。そこには、「諸仏・法(教え)・僧(サンガ、僧団)に敬礼します。ここにヴィナヤ(律)を誦出して、正法を久住させ、優波離を中心として、戒の要義を説くこととします。諸々の僧たちよ、みなこれを聴きなさい」と、釈尊の法を世間に伝える仏教僧に対して、正しく在ることを促しつつ、それを維持することの重要性が明示されます。ここで言及される優波離は、釈尊の涅槃直後に行われた仏典編纂会議(結集)において、僧団規則の責任者といわれています。これらの作品からは、当時の日本において、律蔵に基づいた正しい仏教僧の在り方を、常に問い続けていた凝然の意気込みと真摯な姿勢がありありと伝わってくるようです。

 そして、涅槃図や十六羅漢像など諸寺院に伝えられている宝物には、礼拝対象としての機能だけでなく、理想の仏教僧を再認識するための仕掛けが施されていたのだと考えます。そうした先人らの日々の積み重ねを、数々の記録や作品を通して感じられる様に、と様々に思案されたご担当者の苦労が偲ばれました。

 戒とは「出家者を出家者たらしめる個人向けの生活規則」であり、律とは「出家者の集団規則に関する規定」のことで、それらを纏めたものが律蔵です。本来、仏教僧、あるいは仏教僧団の秩序が保たれていれば規則さえも必要ありません。しかし現実には、律蔵はまとまったものだけで、6種ものシリーズが現存しています。このことは僧団内で種々のトラブルが起こり、僧団運営の理想に現実が追いつくことは困難であったことを示唆します。そのような現実の中にあっても、仏教僧は、環境を整え自らと向き合い、心を整えて、正しく思考する智慧を得るために励みました。時代を超えて、地域を越えて、仏教僧が在るべき姿を追い求めた高僧たちの物語が、展示室を彩っていました。

[No.212 京都国立博物館だより10・11・12月号(2021年10月1日発行)より]

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