英一蝶のこと
(はなぶさ・いっちょうのこと)

 あまり作品のことばかり話をしていても堅苦(かたくる)しくなってしまうので、今回はひとりの絵描きに絞(しぼ)って説明することにしましょう。

 英一蝶、という美しい名前をもった画家をご存知でしょうか。17世紀の終わりのころから18世紀の第一・四半世紀(「四半世紀」とは、一世紀100年間を25年間ずつに区切ることを意味しており、第一・四半世紀はその世紀の四分の一までの期間をさします)まで活躍(かつやく)した画家で、その絵は大変人気を博(はく)したとみえて、いまでも数多く一蝶の作品が残っています。にせ物が沢山(たくさん)あることでも有名で、それはかれの人気のすごさを物語っているのです。



梅月山鵲
英一蝶筆
紙本墨画 109.9 x 30.1cm
<個人蔵>


 では、どうして一蝶はそんなにも人気があったのでしょうか。もちろん、その絵は描く力が人並(ひとなみ)すぐれていたこともありますが、理由はそれだけではありません。それは、かれの人生がふつうの画家では考えられないほど、波瀾万丈(はらんばんじょう)のものであったからなのです。

 一蝶の父親は、多賀伯庵(たがはくあん)という名の医者で、伊勢(いせ)の亀山藩(かめやまはん)の石川侯(いしかわこう)の侍医(じい)をしていました。当時としては安定した職業であり、幼い一蝶も何不自由ない生活をしていたと思われるのに、1666年、一蝶が15歳のとき、両親に連れられて江戸へ出てゆきました。その理由はわかりません。

 江戸へ出たあとのことも詳(くわ)しくはわからないのですが、幕府(ばくふ)の御用をつとめる狩野安信(かのやすのぶ)というひとの門人(もんじん)になって絵を学んだことは確かです。ところが安信は一蝶を破門(はもん)してしまいます。ある書物にはこれが17歳のとき、つまり入門してわずか2年後のことだったとしていますが、いずれにしても明白(めいはく)な理由はわかりません。

 その後、彼は多賀朝湖(たがちょうこ)という名で狩野派風の絵を描くかたわら、暁雲(ぎょううん)の名で俳諧(はいかい)を詠(よ)んでいました。むしろ俳諧師としての名声の方が高かったようです。そうしたことから、芭蕉(ばしょう)の高弟のひとりである其角(きかく)と親友になったばかりか、芭蕉そのひととも交(まじ)わりを結ぶようになりました。江戸の豪商(ごうしょう)や旗本(はたもと)、あるいは大名(だいみょう)らとの交友も盛んになり、朝湖・暁雲は江戸の有名人のひとりになったのです。



蓮鷺図
英一蝶筆
紙本墨画 82.3 x 26.3cm
<個人蔵>


 1693年、そのふるまいが何か目に余るものがあったためか、逮捕(たいほ)されて入牢(にゅうろう)の憂(う)き目にあうのですが、幸いに二ヶ月後に出ることができました。後世に名を残した画家で入牢したのは大変珍しい例といえますが、これで終わったわけではありません。その5年後、1698年、かれは再び逮捕されますが、今度は許されることもなく、伊豆七島(いずしちとう)のなかの三宅島(みやけじま)へ流されることになったのです。一蝶、47歳のときでした。当時の平均寿命(へいきんじゅみょう)からすると、若くないというより老年といってもよい年頃です。おそらく、生きて二度と江戸の土を踏むことはできない、そういう思いいっぱいで、遠ざかる江戸の町を眺(なが)めたにちがいありません。

 罪が何であったのか、これも実は完全にはわかっていないのです。江戸時代を通じて、ずっと、その訳を突きとめようと様々な推測(すいそく)がなされましたが、決定的な証拠(しょうこ)はいまだに見つかっていません。

 1709年、将軍の綱吉(つなよし)が死に、将軍が代(だい)がわりになったことを記念した大赦(たいしゃ)を受けて、一蝶は江戸に還(かえ)ってくることになります。このとき、一蝶はすでに58歳になっていました。

   帰還(きかん)する船のなかで、かれは一匹の蝶を見つけ、それまでの朝湖の名を捨てて一蝶と名のるようになったということです。英(はなぶさ)は母の姓の花房からとられました。

 かれの名声は帰還後ますます高いものになりますが、両親はもとより、親友の其角も、そして芭蕉もいない江戸の町で、一蝶の最後の15年間の幕がこうして上がったのでした。

 江戸時代には、こんな絵描きもいたのです。



美術室 狩野(イラスト 普及室 市田)
1996年2月10日

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