博物館ディクショナリー

茶の湯釜(ちゃのゆがま)

 このごろは「学校の怪談」がおおはやりで、あまり昔話は聞かないかもしれませんが、皆さんは「ぶんぶく茶釜(ちゃがま)」の話を知っていますか? 貧乏な男に助けられた狸が恩返しに茶釜に化け、つな渡りの芸をしてお金をかせぐという話、坊さんが狸をとって食おうと迫いかけたら茶釜に化けたが、火にかけられ手や足が出てきてばれてしまったという話など、いくつかの筋書きがあります。

 これらの話は、茶釜のかっこうを知らなければあまり面白くありません。茶釜のふくらんだ形が狸の大きなおなかを連想させるので、ごく自然に物語の情景を思い浮かべることができるのではないでしょうか。「ぶんぶく茶釜」の話は、江戸(えど)時代には最も人気のある話の一つとなっており、絵本もたくさん出されていました。ですから当時の子供たちにとって、茶釜は身のまわりの普通の生活道具だったことがわかります。
 それでは、いつごろからこのような釜が使われるようになったのでしょう。もともと鉄の釜は、湯をわかす道具として鎌倉(かまくら)時代ころにはかなり使われていました。当時はお茶だけでなく、食事のためのお湯や、風呂など日常に使うお湯まで、いろいろな目的で湯わかしをしていたようです。

 それまでのお茶は大切な薬として飲まれたものですが、栄西(えいさい)というお坊さんが中国から抹茶(まっちゃ)を伝え、室町(むろまち)時代になると「闘茶(とうちゃ)」という茶の産地を当てる飲み方まで流行して、お茶が人々の楽しみの一つになってきました。このような中で、お茶の湯をわかすための専用の釜、茶の湯釜が登場してきたのです。とくに室町時代の後半から桃山(ももやま)時代にかけて、16世紀ころには、京都や堺(さかい)などの都市、それに各地の城下町でも武家や商人たちが競って茶会を開き、そのために、有名な釜産地に特別注文して茶の湯釜をあつらえました。とくに芦屋(あしや)(今の福岡県芦屋町(ふくおかけんあしやちょう))と天命(てんみょう)(今の栃木県佐野市(とちぎけんさのし))、そして京都で作られた釜は、お茶の世界でひじょうに大切にされ、それは釜作りがすたれた現在でも変わっていません。

  • 古天命尾垂釜 <個人蔵>
    古天命尾垂釜 <個人蔵>
  • 芦屋霰地楓鹿図真形釜 <個人蔵>

これら茶の湯釜の古い時期のものは、写真のような形をしており、真形釜(しんなりがま)と呼ばれました。丸みのある形で、もともとは下寄りにひさしのような羽がめぐっていました。これは以前からの湯わかし釜の形を受け継いだものです。江戸時代には、それ以外にさまざまな形の茶の湯釜がありましたが、真形釜が最も多く使われたようです。「ぶんぶく茶釜」で狸が化けた茶釜もきっとこのような真形釜だったのではないでしょうか。
 ところで、何人ものお客を招いて、とびきりの茶わんや器と、それに茶の湯釜を用意する茶会は、相当にお金のかかるものだったようです。豊臣秀吉(とよとみひでよし)などは黄金の茶室で、黄金の茶道具を使って茶会を開いたといわれます。京都で最も有力な商人であった茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)の邸宅跡(今の京都府庁の西側)からすばらしいお茶の器がたくさん出土したのも、彼の財力があったからこそでしょう。しかし茶の湯は、けっしてお金持ちだけがやっていたわけではありません。最近の発掘調査で全国各地の遺跡からお茶の器(うつわ)が出土し、とりわけ茶の湯が盛んであった大都市や城下町では、面白いことに真形釜をまねた土器の釜までよく出土します。このようなことから、当時さまざまな階層の人々が、それなりのやり方で茶の湯を楽しんでいたことがうかがえます。

 「ぶんぶく茶釜」の話がはやったころ、人々のごく身近な道具となっていた茶の湯釜も、ひじょうに長い時代をへて、生活の中へ入ってきたものです。茶の湯釜一つ一つを眺め、これを使った人、作った人のことに思いをめぐらしてみて下さい。

工芸室 久保
1994年1月8日

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