博物館ディクショナリー

般若心経(はんにゃしんぎょう)

 皆さんは、孫悟空(そんごくう)・猪八戒(ちょはっかい)・沙悟浄(さごじょう)の3人が三蔵法師(さんぞうほうし)のお伴をして天竺(てんじく)(今のインド)へ仏さまの教(おしえ)を書いたお経を取りに行く『西遊記(さいゆうき)』という中国の物語を知っていますか?

 その物語のモデルとなった三蔵法師が、この『般若心経(はんにゃしんぎょう)』というお経を中国に伝えた、玄奘(げんじょう)(600または602-664)というお坊さんです。

  • 玄奘三蔵
    玄奘三蔵 <東京国立博物館蔵>

玄奘が活躍した時代は、今から1300年以上も前の中国唐(とう)時代でしたから、インドへ行こうにも飛行機や車などがあるはずがありません。そこで馬に乗ったり、歩いたりしてインドへ行ったわけですが、途中にはゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などという難所もあり、恐らくは死を覚悟しての旅だったと思います。中国の貞観(じょうがん)3年(629)に都である長安(ちょうあん)を発ち、3年余の旅路を経てインドに到達し、その後は一所けんめいに仏の教を学び、16年後の貞観19年(645)に多くのお経や仏像などを持って中国に帰りました。中国に帰ってからの20年余の間に76部1347巻というものすごい数のお経をインドの言葉から中国の言葉、つまり漢字に翻訳したのです。その中の一つがこの『般若心経』なのです。
 このようにしてインドから中国へ伝えられたお経は奈良(なら)時代や平安(へいあん)時代の入唐僧(にっとうそう)(中国へ渡ったお坊さん)などによって海を渡り、日本に伝えられたのでした。しかし、伝わったといっても、当時はまだ印刷技術が発達していなかった時代ですから、お経は多くの人達の手によって紙・墨・筆を使って書き写されたのです。

  • 般若心経(隅寺心経)
    般若心経(隅寺心経)

写真のお経は、奈良の海龍王寺(かいりゅうおうじ)(隅寺(すみでら)ともいわれた)というお寺で、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)(774-835)が書き写したものという言い伝えがありますが、実際には弘法大師より少し古く、今から1200年以上も前の奈良時代にお経を書き写す専門の人によって書き写されたものです。さすがに専門の人が書いただけあって、きれいで力強くお経が書き写されています。
 漢字ばかりで書いてあるので、ちょっと大へんかも知れませんが、最初に1行あげて「心経」と書いてあるのがお経の名前で『般若心経』を簡単にした呼び方です。次の行の「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)(観音(かんのん)さまのこと)」というところから、後から4行目の「菩提薩婆呵(ぼだいそばか)」までがお経の本文です。お経の本文は1行に書く字数が決まっています。ちょっと数えてみてください。1行17字になっていませんか?ただ、後から4行目の「掲諦掲諦(ぎゃていぎゃてい)」の行は、呪文のような言葉なので字数に関係なく、1行に書かれています。また最後の3行は、このお経を読んだ時の功徳(くどく)(ご利益(りやく))が書かれていますが、多くはこの部分が書き写されていません。

 この『般若心経』は、日本で最もよく知られ、親しまれているお経で、今もたくさんの人達によって、このお経が書き写されています。

 最後にかたちについて一つ。かたちは巻き物になっていますが、お経が書き写されている所にはごくうすく界線(かいせん)という線が引かれています。もちろん、本文が曲らないような働きをしていますが、これは昔、中国において紙が発明される以前に書物を木簡(もっかん)(木をうすく削って短冊状(たんざくじょう)にしたもの)に書き写したなごりなのです。その1本1本の上下を紐(ひも)で編んだかたちが、紙に書いたお経などのかたちになっていったものなのです。

美術室 赤尾
1994年3月12日

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