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浄瑠璃寺の多聞天立像 (じょうるりじのたもんてんりゅうぞう)

 浄瑠璃寺(じょうるりじ)といえば、横長(よこなが)のお堂(どう)いっぱいに、一列にならんだ九体の阿弥陀如来(あみだにょらい)や、色鮮(いろあざ)やかな吉祥天(きちじょうてん)などで有名(ゆうめい)ですが、みなさんはこのお寺がどこにあるのか知っていますか?奈良(なら)!と答(こた)えた人は残念(ざんねん)ながら不正解(ふせいかい)です。実は浄瑠璃寺は京都府木津川市(きょうとふきづがわし)にあります。といっても、ほとんど京都と奈良の県境(けんざかい)で、京都の中心部(ちゅうしんぶ)からは30キロほど離(はな)れており、一方、奈良からは5キロほどしかありません。バスも奈良から出ているので、お寺まで実際(じっさい)に行ったことがある人のほうが、かえってまちがったんじゃないでしょうか。

 この浄瑠璃寺ですが、お寺の記録(きろく)によると永承(えいしょう)2年(1047)の創建(そうけん)といいます。現在は九体の阿弥陀如来を本尊(ほんぞん)とし、九体寺(くたいじ)ともよばれていますが、当初は現在三重(さんじゅう)の塔(とう)に安置(あんち)されている薬師如来(やくしにょらい)を本尊とするお寺でした。このことは浄瑠璃寺という名前からもうかがうことができます。瑠璃というのはガラス(古代のガラスは宝石(ほうせき)とおなじくらい高価(こうか)なものでした)のことですが、ガラスの輝(かがや)きのように美しいとされる薬師如来の住(す)む世界のこともあらわしています。浄瑠璃寺という名前には薬師如来がお住まいになる世界のように美しいお寺、あるいは薬師如来をおまつりするお寺という意味(いみ)がこめられているのでしょう。では、現在の本堂と本尊である、阿弥陀堂と九体の阿弥陀如来坐像(ざぞう)はいつ作られたのでしょうか。これにはいくつかの説(せつ)があります。というのも、お寺の記録には嘉承(かしょう)2年(1107)に新しいお堂を創建し、翌年に「開眼供養(かいげんくよう)」したということが書かれていますが、これが具体的(ぐたいてき)になにを指(さ)しているかがわからないためです。ある人は1047年の創建時(そうけんじ)にすでに九体ともつくられていたといい、別の人は新しいお堂すなわち九体阿弥陀堂とともに完成したと考えています。なかには中尊(ちゅうそん)だけが先に完成し、脇(わき)の八体は遅(おく)れてつくられたと考える人もいます。しかし、現在では1108年に完成したという説が一般的です。

  • 国宝 多聞天像 浄瑠璃寺蔵
    国宝 多聞天像
    <浄瑠璃寺蔵>

 さて、ここからが多聞天像(たもんてんぞう)の話になります。この像は阿弥陀堂にまつられている四天王(してんのう)のうちのひとつですが、これもお堂や阿弥陀如来と同じ、1108年に完成したのでしょうか。これが今日のメインテーマです。でもちょっとその前に、四天王について簡単(かんたん)に勉強しましょう。四天王というのは世界の中心にあるという聖(せい)なる山、須弥山(しゅみせん)の中腹(ちゅうふく)にいて東、南、西、北の四方(しほう)をまもっています。東から時計回(とけいまわ)りに、持国天(じこくてん)、増長天(ぞうちょうてん)、広目天(こうもくてん)、多聞天の順です。このうち多聞天は単独(たんどく)でも信仰(しんこう)されて毘沙門天(びしゃもんてん:七福神(しちふくじん)のひとりですね)ともよばれます。

  • 国宝 広目天像 浄瑠璃寺蔵
    国宝 広目天像
    <浄瑠璃寺蔵>
  • 国宝 増長天像 浄瑠璃寺蔵
    国宝 増長天像
    <浄瑠璃寺蔵>
  • 国宝 持国天像 浄瑠璃寺蔵
    国宝 持国天像
    <浄瑠璃寺蔵>

 多聞天がいつつくられたのかということに話を戻(もど)しましょう。まず、像の洗練(せんれん)された作風(さくふう)から、貴族文化(きぞくぶんか)が花開(はなひら)いた平安(へいあん)時代後期、もっと限定(げんてい)すると11世紀後半から12世紀前半につくられたのはまちがいありません。そして、ともに四天王を構成(こうせい)する他(ほか)の三像とじっくり比(くら)べてみると、多聞天だけがいろんな点で、他とはちがった特徴(とくちょう)をもっています。たとえば、他の像が腰(こし)をひねって動きのあるポーズをとるのに、ほぼ直立(ちょくりつ)していたり、腰前でU字を描く帯状(おびじょう)の布(ぬの:天衣(てんね))が、他よりゆったりとしたカーブを描(えが)いています。また、木材(もくざい)の組(く)み合(あ)わせ方も多聞天像だけが異(こと)なっています。このことから、多聞天と他の三像のつくられた時期(じき)がちがうのではないか、ということが想像(そうぞう)できます。そこでお寺の記録(きろく)をみると、1108年に毘沙門天を供養(くよう)したということが書かれていますが、他の像のことは書かれていません。どうやらその時点(じてん)では、よそのお寺から譲(ゆず)られたか、あるいは新(あら)たにつくられたかはわかりませんが、毘沙門天すなわち多聞天だけがお寺にあったようです。したがって、多聞天は11世紀後半から12世紀はじめの間に単独の像としてつくられ、1108年よりもしばらく後に、他の三体を加えて四天王としたと考えるのが良いみたいです。しかし、残された資料(しりょう)が少ないため断定(だんてい)はできませんし、他の可能性(かのうせい)もいろいろと考えられます。なかなか難(むず)しい問題(もんだい)ですが、みなさんも探偵(たんてい)になったつもりで、想像をめぐらしてみませんか。

美術室 淺湫
2001年2月10日

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