博物館ディクショナリー

洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)

 「洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)」と呼ばれる屏風があります。6枚折れの屏風でペアになっているのが、普通のかたちです。描かれているのは京都の町のすがたで、高いところから見おろしたように、京都の有名なお寺や神社、あるいは御所や武士の屋敷、様々な商売をしている店までもが、こと細かくとらえられ、そこに集まる人々も詳しく描かれています。

  • 洛中洛外図
    洛中洛外図
    六曲一双 右隻部分
    <島根県立美術館蔵>

 京都を描いた屏風であるのに、どうして「洛中洛外図」と呼ばれるのでしょうか。

 京都は中国の唐(とう)の都の長安(ちょうあん)をモデルとして築かれたのですが、いつのころからか、西半分の右京(うきょう)を長安城(ちょうあんじょう)、東半分の左京(さきょう)を洛陽(らくよう:同じく中国の古都)城と呼ぶようになります。けれども右京は湿地帯が多かったために早くにさびれてしまい、長安城という名は有名無実(ゆうめいむじつ)となりました。それに対して左京は発展していったため、「洛陽」が京都 の代名詞となってゆき、それを略して「洛」が京都を意味するようになります。

 都の中心線の頂上にあるべき内裏(だいり)も、14世紀には大きく東へ移動して、現代の京都御所の位置になってしまいます。
 洛中洛外とは、京都の町なかとその郊外といった意味のことばです。
 桃山(ももやま)時代になって、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は京都の町をぐるりと取リ囲む「お土居(どい)」を築きます。それは洛陽城の部分に北側と東側をやや足した程度のものですが、「洛中」はそのお土居で囲まれた範囲と考えてよいでしょう。

 洛中洛外図屏風が描かれるようになったのは、いつごろのことでしょうか。
三条西実隆(さんじょうにしさねたか)という公家(くげ)が書いた日記は「実隆公記(さねたかこうき)」と呼ばれ、中世末期の京都のもろもろのことを知るのに大変重宝されているのですが、その永正(えいしょう)3年(1506)12月22日の記事に、

越前(えちぜん)の朝倉(あさくら)氏が屏風を新調した。屏風1双に京都を描いたものである。宮廷の絵師の土佐光信(とさみつのぶ)が新しく描いたもので、大変珍しい屏風だ。一覧して興奮した。

と書かれています。この記事が、洛中洛外図屏風について書かれた最初の文献だと考えられています。しかし、ここに記された屏風は、いままでのところその存在が確認されてはいません。現存する最古の洛中洛外図は千葉(ちば)の佐倉(さくら)にある国立歴史民俗博物館にあるもので、もとの所蔵者の名をとって町田家本(まちだけぼん)と呼ばれることがあります。そこに描かれている京都は1530年を中心とする10年間のものと考えられています。

 歴博(国立歴史民俗博物館の略称)には、もうひとつ古い洛中洛外図があって、絵を描いたのは、狩野永徳(かのうえいとく)の父の直信(なおのぶ)ではないかともいわれます。「高橋本(たかはしぼん)」と呼ばれます。
もうひとつ、狩野永徳が描いた洛中洛外図があり、これは代々上杉家(うえすぎけ)に伝えられたため「上杉本(うえすぎぼん)」と呼ばれるのですが、洛中洛外図の最高傑作と誰もが認める屏風です。織田信長(おだのぶなが)が上杉謙信(うえすぎけんしん)に贈ったものですが、永徳は信長に抱(かか)えられていた絵師でもありました。
これらの屏風は洛中洛外図のなかでも古いもので初期洛中洛外図と呼ばれますが、関ヶ原(せきがはら)の合戦で勝利した徳川家康(とくがわいえやす)が二条城(にじょうじょう)を築くことによって、新たな洛中洛外図が数多く描かれるようになります。

  • 洛中洛外図
    洛中洛外図
    六曲一双 右隻
    <島根県立美術館蔵>
  • 洛中洛外図 六曲一双 右隻
    部分
  • 洛中洛外図 六曲一双 右隻
    部分
  • 洛中洛外図 六曲一双 右隻
    部分

 掲載(けいさい)している洛中洛外図(島根県立美術館蔵)は、その第二期の洛中洛外図のなかでもっとも早い制作期の作品です。ちょっと独特なまる味をおびた人物表現、建築の細部に異常な集中力を示す特徴から、岡山(おかやま)の林原(はやしばら)美術館の洛中洛外図(岡山藩主池田家(いけだけ)が代々もっていたため「池田本(いけだぼん)」と呼ばれる)とまったく同じ筆者の手になるものと考えられます。
 ひとつの都市が第一線の絵描きによってこれほどまでに作られてきた例は、実は世界にはまったくないことなのです。

美術室 狩野
1997年12月13日

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