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No.131
美術品輸送の今昔
京都国立博物館 主任研究員
森 道彦
学芸員として最も頻繁に携わる仕事の一つが、文化財の点検と梱包、輸送に関する色々。大きな展覧会のたびごと、外に拝借にゆき、逆に京博に借用に来られればお貸出の点検に立ち会う。修理やご寄託関係の出入り、一時的な保管といった展示以外の業務でも、梱包と輸送が必要な場面は多い。目下、美術工芸品の輸送については専門会社があり、驚くべき梱包ノウハウを持った経験豊富なエキスパートが、専用の資機材を準備して手際よく取りかかってくれる。一見して移動が難しそうなお品も、彼らと一緒に下見や事前確認をしっかり行い、段取りや資機材に工夫を重ね、予算を工面できれば(これが難しいが)安全に動かせることがままある。
しかし振り返るに、現代のような資機材や輸送車がない昔、華奢な美術工芸品を遠方まで運ぶのは何とも大変だったはずだ。研究に関わって古い品々についての資料や記録に目を通すと、このお像、この軸はかつてどこそこにあり、その後移されて…といったことが多々書かれている。どうやって壊さずに運びきったのか。移動の記述は極めてあっさりしているが、その裏の苦労・苦心はいかなるものか。
江戸時代の初め、徳川家康に重用されて京、駿府、江戸で幕府のブレーンとして活躍した著名な禅僧、以心崇伝(いしんすうでん、1569~1633)の日記『本光国師日記』に、こんな内容の書状が書き留められている。寛永4年(1627)、以心が京の本拠である南禅寺金地院を大改築すべく、費用捻出のために秘蔵の墨蹟2幅を富裕な大名家に譲った際のこと。軸の売却を仕切ったのは、京で以心の留守を預かる弟子の最岳元良(さいがくげんりょう)で、懇意にしていた唐津の大名、寺沢広高(てらさわひろたか)が受け渡しを仲介したらしい。最岳は「箱に入れ、綿を詰めて封をせよ。その上で上家(雨露を避けるための外覆い容器?)に入れ、渋紙(柿渋を塗って防水加工した紙)で外をしっかり包み、さらに畳表(たたみおもて)でくるんで、雨の際も川を渡る際も差しさわり無いようにせよ。輸送に当たっては、普段の出入りの飛脚ではなく、道中の用心として広高公の使者がいらっしゃるので、彼とよく示し合わせ、中身や梱包具合をしっかり確認してもらった上でお渡しするように。」と、遠方(恐らく江戸)までの輸送と点検について細かに指示を出した。重要な財産の輸送と引き渡しである。価値を損ねないよう緩衝材を入れて防水に気を遣い、防犯も考慮する。最終、両者で事前に状況確認を行う基本は現代と変わらない。
金地院の例はプライベートでなされた一点ものの小規模な美術品輸送だが、江戸時代に大都市を中心に行われた社寺の出開帳(でがいちょう)のそれは、現代の大がかりな特別展で行う輸送をより彷彿とさせる。当時の資料には、霊像や宝物を輸送するための資材やコストのこともみえる。輸送や展観にかかる費用は非常に高額だったが、経理を疎かにしなければ、拝観料収入に富豪からの莫大な協賛金(寄付金)獲得、各種の関連イベントやショップその他によって概ね賄うことが出来、地域の社寺の特別な臨時収入となった。信仰の熱狂に支えられるという側面から、霊像・霊宝の輸送そのものがイベント化しやすいのが特徴で、輸送時のセキュリティを第一に考える現代とは思考が違うのが面白い。輸送のイベント化は宣伝や協賛者向け対応の一つのあり方でもあり、ものと縁を結ぼうとする無償の奉仕者を増やすことは、道中の経費の若干の節減にもなっただろう。不動明王の霊場として江戸で特に人気の高かった成田山新勝寺(千葉県成田市)には、当時霊像の輸送に用いた漆塗りの密閉型の輿(こし)が残る。現代の美術品輸送専用トラック(通称、美専車)の一祖先といえようか。
とかく古い時代のこと、運搬方法や資機材自体は違うので、実際には輸送品を多少傷つけてしまうこともあったかもしれない。ただし、輸送時の安全確保や経費に対する目線の中に、現代の我々と共通するものを感じるのも確かである。ちなみに現代において展覧会をするとき、私たち学芸の人間はしばしば「〇〇、初出品!」をアピールしたくなるのだが、同時に、ひょっとすると実は何百年か昔、我々の先祖たちが運んで展観しようとしたことがあるかもしれないという不安にも駆られる。輸送と展示の歴史が案外古いからである。
[No.231 京都国立博物館だより7・8・9月号(2026年7月1日発行)より]