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『東行記』烏丸光広の旅日記(『とうこうき』-からすまるみつひろのたびにっき-)
美術室 下坂
1999年03月13日
JR京都(きょうと)駅から北にまっすぐ走る大通り―烏丸(からすま)通り、この通りの名を家名(かめい)にしていた公家(くげ)の家がありました。これからお話しする紀行記(きこうき)『東行記(とうこうき)』の作者光広(みつひろ:1579~1638)が生まれた烏丸家(からすまるけ)です。烏丸家は室町(むろまち)時代に始まり、歴代(れきだい)の当主(とうしゅ:主人)は和歌(わか)を得意としたことで知られる古い家です。
そのような由緒(ゆいしょ)ある歌の家に光広が誕生したのは、天正(てんしょう)9年(1581)のことでした。明智光秀(あけちみつひで)が織田信長(おだのぶなが)を本能寺(ほんのうじ)に攻めた本能寺の変が、翌天正10年の出来事ですから、長かった戦乱の時代がようやく終わりに近づいた時期に、彼は生を受けたことになります。
ただ、光広にとってそれが幸せであったかというと、必ずしもそうはいえなかったようです。というのは、才気(さいき)あふれる光広には、平凡な公家の生活がどうにも退屈(たいくつ)でならなかったからです。慶長(けいちょう)14年(1609)、あまりに羽目(はめ)をはずした遊びがもとで、天皇からきつい罰を受けたのも、彼が刺激(しげき)に飢(う)えていたからに違いありません。思えば賛沢(ぜいたく)な悩みですが、やがて光広はその豊かな才能を歌や書の分野に向けることで、平和な時代に生きる道を見つけ出します。
ここに紹介するのは、光広が京都から江戸(えど)まで旅したときに作った『東行記』と呼ばれる紀行文の草稿(そうこう:下書き)です。彼は何度か江戸に赴(おもむ)いていますが、残念ながらこの紀行文がいつの江戸下(くだ)りの時のものかはわかりません。
当時、京都から江戸への旅はおよそ2週間余り。現在、新幹線に乗れば2時間余りで行ける私たちからすれば、なんとも時間のかかる旅ですが、光広もむろん歩いて江戸まで旅しています。
『東行記』は京都を離れ近江(おうみ:滋賀県(しがけん))への入り口、逢坂(おうさか)の関(せき)にさしかかったところから始まっています。逢坂の関を越え大津(おおつ)・膳所(ぜぜ)を過ぎると、瀬田川(せたがわ)を越えるために渡らなければならなかったのが、瀬田(せた)の長橋(ながはし)(唐橋(からはし))です。光広は逢坂の関と瀬田の長橋を続けて取り上げ、次のような歌を詠(よ)んでいます。
しるしらず 会とひかわす 旅人の 行とかへると あふ坂の関
あふみなる 瀬田の長橋 ながゝれと 廻りそめたる 君が代のとき
京都を出てはや光広がすっかり旅行気分にひたっていた様子が目に浮かぶようです。独特(どくとく)な崩(くず)した字で読みにくいかもしれませんが、皆さんも写真と合わせてぜひ読んでみて下さい。
光広はこの『東行記』を平安(へいあん)時代の『伊勢物語(いせものがたり)』を意識して作ったと思われますが、彼の面白いところはたんに文章や歌だけでなく『伊勢物語』にはなかった絵を取り入れたところです。旅で目にした名所の風景を、見事なタッチでスケッチし残してくれたのです。逢坂の関と瀬田の長橋も、旅人たちの行き交う姿を中心に実に分かりやすく描かれているのが印象的です。
この文と歌と絵の三つを組み合わせた光広の旅日記は、もちろん江戸到着まで続いており途中、八つ橋(やつはし:愛知県(あいちけん))、小夜(さよ)の中山(なかやま)、大井川(おおいがわ)の渡(わた)し、清見(きよみ)が関(せき)、富士山(ふじさん)(以上、静岡県(しずおかけん))といった街道沿(かいどうぞ)いの名だたる名所を、すべて織(お)り込(こ)んでいます。
書にしても絵にしても光広独特の癖(くせ)のある筆跡(ひっせき)は決してなじみやすいものではありません。でも、焦(あせ)ることなくゆっくりと見ていけば、その躍動的(やくどうてき)な筆線(ひっせん)に込められた豊かな味わいをきっと気に入ってもらえると思います。