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No.9

秘儀のエレウシス

難波 洋三

 エレウシスの名は、母デーメーテールと娘ペルセポネーの二柱の農業神を祭るその聖域で毎年執り行なわれた秘儀により、古代ギリシア世界において広く知られていた。来世の幸福を約束するというその秘儀が、具体的にどのような儀礼行為で構成されていたかについては、入信者がそれを口外することを固く禁じていたため、今に明確に伝わっていないが、死の王ハーデースによるペルセポネーの掠奪に端を発して四季の巡りが生まれたという神話にちなんだ、死と再生の儀礼であったと推定されている。

 このように古代には全ギリシアの信仰を集めた聖地エレウシスであるが、しかし、 昨秋、文部省の在外研究員としてギリシアを訪ねた私の見たエレウシスには、聖地の面影はまったく残っていなかった。今のエレウシス市は、石油化学をはじめ鉄鋼・セメントなどの大型プラントが海岸に並ぶギリシア共和国で最も重要な、そして一方では大気汚染などの公害で悪名高い、工業都市なのである。海岸に舳を並べた幾隻ものタンカーから汲み出される原油は、海岸を這うパイプを通じて、複雑に入り組んだ銀色の配管を剥き出しにした巨大な反応槽へと絶えず送り込まれている。そして、山裾にたつ高い煙突の頂きには、石油の精製過程で発生する排ガスの巨大な炎が昼も揺れ、窓を締め切ったバスの中までも異臭が入り込んでくる。だが、生活に必要な物質の生産の多くをこれらの工業に負っている現在の我々にとっては、このように姿をかえた工業都市エレウシスこそが豊饒の秘儀の地なのであろう。

 地の底ハーデースの国から掘り出した太古の生物の死骸や石を化学の力で変容させて、あらゆる物質をつくりだすこの現代のエレウシスの秘儀は、古代のそれに比較にならない豊饒を我々にもたらしている。しかし、そのありさまのなんと悪魔的で、なんと死の臭いにみちみちていることか。古代のエレウシスにたちこめていた、犠牲の油肉、香や麦を焼く馨しいにおいは、いまや硫化物の刺激臭に代わり、生きとし活けるものの復活と再生を願った古代の神域では、倒れた石柱が酸の雨に打たれてゆっくりと溶けていく。山の斜面には昔と変らずオリーブが植えられているが、その葉裏は煤煙で黒く汚れている。

 私にとってエレウシスは、学生時代に鷲巣繁男氏の文章を介してアンゲロス・シケリアノスの詩「聖なる道」を知って以来の眷恋の地であった。そして、今回のギリシア滞在中、アテネからミケーネへ、あるいはオリンピアへの往来の際などに幾度も通り抜け、立ち寄る機会はあったのだが、このような現在のエレウシスで私がバスを降りることは、ついになかった。

[No.109 京都国立博物館だより1・2・3月号(1996年1月1日発行)より]

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