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No.17

「花鳥図」一幅

中川 久定

 アイリアノスの『ギリシア奇談集』 (執筆は紀元3世紀) には、 アテナイの港ペイライエウスに富裕な船主たちの持ち船が入ってくるごとに、それが自分の「持ち物」 だと思いこんで、仕合わせな気持ちに酔い痴れている、 無一物のトラシュロスの話がのせられている。この4月から京都国立博物館に勤務し始めた私の心境は、さしずめトラシュロスのそれであろう。 事情さえ許せば、いつでも私は、 自分の 「持ち物」 を目にする幸福を味わえるのだから。美術室長狩野博幸氏の鑑識と努力によって集められた桃山時代の名品が並ぶ現在の本館は、先日来、 私のペイライエウス港になっている。次々と私の眼前に現れる大画面の群れ。その中に、いつも私が釘づけになる1点がある。京都建仁寺蔵、 海かい北ほう友ゆう松しょう筆紙本墨画 「花鳥図」 1幅 (190 cm×226 cm) で、孔雀と松が描かれている。丁寧な修復がほどこされているにもかかわらず、以前の劣悪な保存状態がうかがえる(図録の写真は、特に不鮮明である)。

 だが、その前にしばらく立ちどまってみよう。突然画面のいたみは意識から去り、 全体の大きな力が見る側に迫ってくる。 画面下半分のほとんど全体を占めている山頂に注目しよう。盛り上がった土のほぼ中央から太い松が、右手かなたの中空へやや傾斜しながら向かい、そこで体をよじるように左に屈曲したあと真っ直ぐに立ち上がる。延びた先はやがて消え去って、限定しえない空間のうちに姿を隠す。松の根の左側、すなわち画面左端の少し手前寄りに、こちらを向いて、2本脚を踏んばるようにした1羽の孔雀が、尾を高くはねあげている。松の根よりずっと手前、すなわち画面中央下には、くっきりと鮮やかな笹の葉。

 もしヨーロッパの美学者をこの1幅の前に立たせたならば、恐らく彼はここに、自らが「美」との対比によって常に規定してきたづけられ「崇高」なものの具現化を見いだすことであろう。なぜなら、眼前に存在しているのは、「美」と名るべきものの持つ、あの均整と調和ではなくて、逆に均衡の破れであり、あの有限と完結を特色とする 「美」 ではなくて、逆に空間的限定をかなたへと超えゆくものなのであるから。ひとをくつろがせ、緊張をゆるめることを本質とする 「美」に反して、この画面が見るひとに与えるのは、強く緊迫した感覚である。 だが、私が問題にしたいことはその先にある。西欧の美学において、「崇高」を例示するためにしばしば選び出されるのは、嵐に打たれながら屹然として立ちつくすカシの木のイメージである。外の力に正面から立ち向かう抵抗と闘争の姿。海北友松の「花鳥図」1幅のうちにも、もちろんこの激しい内的エネルギーは認められる。だが、 画面左下から立ちのぼる、なにものかにあらがうこのエネルギーは、抗しがたい宇宙の力によってそのまま包摂され、右上方の限定なき空間のかなたへと、 静かに救済されてゆくがごとくである。(平成9年11月1日記)

[No.117 京都国立博物館だより1・2・3月号(1998年1月1日発行)より]

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