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  5. 「桃山時代の狩野派」展から考えたこと

No.88

「桃山時代の狩野派」展から考えたこと

同志社大学教授

狩野 博幸

 いつの頃からだったか、おそらくは欧米の美術研究の流行に棹差すものだろうが、桃山時代の襖絵や屏風絵に対して「工房作」と“上から目線”で評する研究が多くなった。学問的緻密性なのだろう。それがどうした、とするのが僕の研究スタンスである。

 日本風俗画史上の文字どおりの金字塔たる「上杉家本洛中洛外図屏風」を詳細に検討した結果、右隻と左隻の人物表現に微妙な相違が散見したため、この屏風は「狩野永徳筆」ではなく「永徳と工房筆」とすべきであるとの意見を耳にした。緻密さこそ研究と信じる人には悪いが、愚かにも程があると僕は思う。こういう人たちはシスティナ礼拝堂の「天地創造」や「最後の審判」も、「ミケランジェロ・ディ・ブオナロティシモーニと工房作」と判じるのであろう。

 掛軸画や扇面画ならともかく、桃山時代以降の障屏画が独りの画家の手になるはずが無い。襖でも屏風でも、ことに金碧濃彩画の場合、いわば初期的設計図というべき「小下絵(こしたえ)」を注文主に見せて許可を得た上でそれを襖絵に作り上げる際に、弟子たちに分業させる。ほぼ完成した絵に最終的に輪郭線を棟梁が墨を入れてゆく(「描(か)き起こし」という)。この棟梁が画者である。室町時代末の元信から始まったこの集団制作によって狩野派が隆盛を迎える。二条城大広間の松の葉の緑青を狩野探幽が塗っていたわけではなくとも、「探幽筆」でいいのである。

 研究と称する半端な“賢しら”をひけらかすものではない。では、こういおうか。武士の情で実名は挙げないが、最近物故した超有名な日本画家の風景画は、撮って来たスライド写真をスクリーンならぬ屏風画面に映写して、それを基に作画していた。「永徳と工房筆」のひそみに倣えば、「I・Hとカメラ筆」と題簽に記すべきであろう。呵々。

 何ゆえかかる駄弁を弄したかといえば、この度の「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」展では、款記を伴わず伝称だけしかない作品も、その画風や歴史記録を参考に可能な限り、その画家を特定しようとする態度が顕著と見えた。これは、実のところ案外に困難なのである。これまで諸書に書かれているように「伝誰それ筆」としておけば、まあそれで済むのだが、「誰それ筆」と断定するには勇気がいる。ことに国立博物館であるからには責任も生じて来る。その意味で、永徳の次男であり探幽の父でもある孝信の筆に帰している作品の多かったことはよろこばしい。孝信こそが、永徳歿後の狩野派が江戸時代まで生き延び得たキー・パーソンだと僕が信じているからである。

 永徳歿後の狩野派の混乱時期において、将来を見据える冷静な眼を持ち、時代の流れを巧妙(ほとんど芸術的といえる)にかいくぐって来た真の功績は、永徳の嫡男の光信ではなく孝信に帰すべきではないのか。もちろん、その孝信に対して時に応じて見事な助言を与えていたと考えられる人物、すなわち、永徳の急死から、秀吉の死、家康の胎頭、豊臣家の滅亡までをつぶさに眼にして来た、永徳の末の弟の長信を忘れてはなるまい。孝信の息子の三兄弟(探幽・尚信・安信)の徳川家奥絵師としての配置の妙を演出したのは、長信の見て来た経験則を抜きに語ることが出きないと思われる。

 だからこそこの時代が面白いのだ。会社経営の要諦、すなわち現代と通じる組織論の見本がこの時代の狩野派を知れば知るほど判るだろう。

 2015年、大学教育において人文系の学問など無用だと宣言したこの国が発狂したのは明らかではないか。

[No.188 京都国立博物館だより10・11・12月号(2015年10月1日発行)より]

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