- TOP
- 学ぶ・楽しむ
- おうちで学ぶ・楽しむ
- よみものweb
- レンズを通して見えるもの
No.128
レンズを通して見えるもの
京都国立博物館 主任研究員
上杉 智英
日付も変わろうという深夜、わが家に衝撃が走る。レンズ豆である。見るともなく点けていたテレビが告げる。「レンズの形をした豆だからレンズ豆ではない。レンズ豆の形に似ていたからレンズと名付けられた」と。何ということだろう。今までずーっと「あのレンズの形をした小さい豆」と言っていたのが逆だったなんて!
凸レンズを通して物体をスクリーンに映すと上下・左右が逆に見える。私の目も然り。水晶体を通して網膜に結ばれる像は上下・左右、逆さまに映る。それを脳が上手いことやってくれているだけであって、実は私が見ているもの、思っていることと、上下・左右・前後・因果が本当は逆であることなんかは、案外よくあることなのかもしれない。
「えっ、そうなんだ」とよく言われるのが巻物(巻子本 かんすぼん)の形をしたお経の制作手順。1枚1枚バラバラの紙に書き写してから、糊で繋ぎ合わせると思われてる方が多いのですが、正倉院に伝わる奈良時代の写経に関する記録「写経所文書(しゃきょうしょもんじょ)」を見てみると、実際には逆で、先に紙を20枚くらい繋ぎ、経文を囲む枠線(界線 かいせん)を引いてから書写したことが分かります。確かにお経の上と下に引かれた細い横線をたどると紙継ぎ部分でも真っ直ぐ繋がっており、線を引いて繋いだのではなく、繋いでから線を引いたことが看て取れます。
✕ 界線引く → 書写 → 紙を繋ぐ
〇 紙を繋ぐ → 界線引く → 書写
「先に紙を繋ぐということは、その時に軸も付けたのかなあ」と思った鋭いあなた、正解です。でも、その軸は今、私たちが見ているお経の最後尾、巻末に付いてる軸ではありません。実は真逆の巻頭、お経の一番始めに仮の軸が付けられます。10~15センチ程の紙に仮の軸を付けて、お経を書き写す本紙の前に糊付けします。この仮の軸を使って巻頭から書き写しては巻いていく訳です。お経の書写が終わり、お手本通りに書き写せているかのチェック(校正)が2回済むと、巻頭の仮の軸は切り離され、私たちが今見ている正式な軸を最後尾に付け、巻頭に表紙が付けられて、お経の形、巻子本と相成ります。
お経の調査をしたことがある人にはあるあるなのですが(そもそも「お経の調査をしたことがある人」がないないか?)、本文の始まる最初の第一紙目は、必ずその後の第二紙以降より2.0~2.5センチ程度(1~1行半くらい)短いのです。大学院生時代からお経の紙の長さを測ってきましたが、ずーっとなんでだろうと不思議に思っていました。この巻頭の仮の軸の存在を知り、それが糊付け部分の少し左で切り離されること、つまり第一紙の右端がわずかに切り取られることを知って、目から鱗が落ちました。ものの形にはちゃんと理由があるんですね。
さて、新しい知の獲得に震え、妻を起こして感動を共有する。「レンズ豆はレンズじゃないんだよ!レンズがレンズ豆なんだ!」「はぁ?」「だからぁ……」「じゃあレンズ豆のレンズって何よ?」「えっ?」。レンズ豆の鱗はまだまだ落ちそうにない深夜の2時でした。
[No.228 京都国立博物館だより10・11・12月号(2025年10月1日発行)より]