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No.132
金銀の風景に遊ぶ
京都国立博物館 列品管理室長
永島 明子
日本工芸の華ともいえる蒔絵は、洗練されたデザインにその魅力がある。文様を大胆な構図で際立たせ、金粉や銀粉をはじめとする多様な素材で飾りたてる。蒔絵に用いる文様は、昆虫などを写実的に描いたものもなくはないが、その多くは、平面的、抽象的、図形的なものである。器物を装飾するときには、事物のすがたを忠実に写すことよりも、意匠としての美しさが重んじられたのである。しかし、今回は、意匠や文様の美しさとは異なる蒔絵の魅力についてお話ししたい。
国宝「初音の調度」をご存知だろうか。徳川家光が、生まれたばかりの長女のために未来の婚礼の日に向けて作らせた蒔絵の婚礼調度である。将軍の威信をかけ、費用を惜しむことなく、京都随一の蒔絵師に作らせたものだ。この調度に描かれたのは、主に『源氏物語』に取材した風景である。「初音」の帖に取材する一群、「胡蝶」の帖を表す一群、そしてそれらとは異なるデザインの器物数点から成る。いずれも、超一流の腕をもつ御用絵師の下絵が用いられたはずだ。
「初音」の図は、光源氏の住まいである六条院の屋敷を描く。ただし、ところによっては、屋敷の建物が、絵巻物の表現技法である吹抜屋台で描かれる場合がある。また、風景のなかに文字を散らす「葦手絵」という手法も用いられる。物語のなかで詠まれる和歌「年月を松にひかれてふる人に今日うぐひすの初音聞かせよ」が、一部は文字のまま画中に散らされ、一部は絵画的に表わされるのである。要するに「初音」の図に描かれる景色は、映画の撮影セットのように屋根のない部屋があったり、大きな文字がそこここに貼りついていたりして、違和感があまりに大きく、現代の私たちにとってはその風景に没入することは容易ではないのだ。
これに対して、六条院の庭園が描かれる「胡蝶」の調度や、各種の香箱(この調度では香道用の香札を入れる箱のこと)には、吹抜屋台もなければ、葦手の文字も散らされていない。特に「名所香箱」「宇治香箱」「古今香箱」「花月香箱」は、天板にこそ箱の名が文字で記されているが、箱の前面から左右の側面へと景色がパノラマのように連続し、箱全体でひとつの空間が描き出されているのだ。
金銀で描かれたその風景をじっとみつめていると、自分自身が景色のなかに入っていくような不思議な感覚を味わうことがある。金と銀の無限のニュアンスで満ちた空間に入りこみ、画中の人となって景色のなかを歩くのだ。金と銀の風景にしばし遊んだあと、ふと顔をあげて辺りを眺めてみると、世界のすべてが金と銀でできているように見えるほどである。
世の中に幾多もある蒔絵のなかで、そのような不思議な感覚をわたしに味わわせてくれたものはいくつもない。その数少ない蒔絵のひとつである「宇治香箱」が、今秋の特別展「源氏物語 王朝のかがやき」に並ぶ。宇治川にかかる板橋、そのかたわらで柳の枝が水面に垂れ、対岸では水車が回り、早瀬が蛇籠をよけるように勢いよく流れる、波間には柴舟が浮かび、遠くには平等院鳳凰堂が見える。宇治を描くときのお決まりのアイテムばかりだが、それらが実景のように描かれている。徳川家の家紋がはんこを捺したように画面の各所に配されているのは、婚礼調度ゆえのお約束である。宇治の風景に遊ぶあいだだけは、心の中でそっと消していただければ幸いである。
京都会場では「宇治香箱」とともに「初音」の図の書棚や香具箱、「胡蝶」の図の挟箱なども並ぶ。ぜひ会場にて、金銀の風景に身をひたしていただきたい。
[No.232 京都国立博物館だより10・11・12月号(2026年10月1日発行)より]