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肖像彫刻(しょうぞうちょうこく)
美術室 淺湫
1999年08月14日
みなさんも美術の授業などで人の姿を描(か)いたことがあると思います。わたしは学校の授業の中で美術の時間がいちばん楽しかったのですが、風景や植物を描いたりするのは得意(とくい)でも肖像画の課題だけは苦手(にがて)でした。どんなに一所懸命(いっしょけんめい)描いてもなかなか満足のいく絵は描けず、何度も描き直しをしなければなりませんでした。みなさんもそんなことはありませんか?
ところで、わたしたちは人と人とを見分けるときに、まずどこを見るのでしょうか?いうまでもなく顔ですよね。したがって我々は人の顔の細かい違いまでよく見ますから、肖像画にしろ肖像彫刻にしろ、少しでも似てないところがあるとすぐに気が付いてしまいます。部分部分は似ているのに全体のバランスが悪いため、その人の肖像かどうかさえ分からず「これ誰の顔?」といわれることだってあります。そんなわけで肖像を製作するというのはなかなか大変です。それが立体となった肖像彫刻となると、似せるためにどれくらいの難しさがあったのでしょうか?今回は平安(へいあん)~南北朝(なんぼくちょう)時代に活躍した4人の肖像彫刻を紹介します。
日本の彫刻作品は寺院(じいん)に安置(あんち)されるものが圧倒的(あっとうてき)に多かったため、肖像彫刻も僧侶(そうりょ)や仏教(ぶっきょう)の発展に力を尽くした人など、仏教関係者の肖像が多数を占めています。
今回紹介するのは千観(せんかん)、良源(りょうげん)、伝一鎮(いっちん)、中巌円月(ちゅうがんえんげつ)の4人です。すべて僧侶の肖像で、法衣(ほうえ)を身にまとって坐り、手は合掌(がっしょう)したり印(いん)を結(むす)んでいたりします。顔の表情や手のかたち、衣(ころも)のしわのよりかたなどを見ると、とてもリアル(写実的(しゃじつてき))に表現されていることが分かるでしょう。実際にこの僧侶たちの姿を見たことがなくても、きっとこのような姿をしていたんだろうなあと思えてきませんか?
さて、仏教にはたくさんの宗派(しゅうは)があるのは知っていますか?そのなかでも、鎌倉(かまくら)時代になって新たに中国(ちゅうごく)から伝えられた禅宗(ぜんしゅう)では、師(し)と弟子(でし)の関係を特に重視(じゅうし)しました。簡単(かんたん)にいえばどの先生から教えを受けたかということです。弟子は自分のお師匠(ししょう)さまをとても大切に思い、師の亡(な)くなったあとも、その肖像を見て教えられたことを思い出しました。また他の宗派でも、自分たちが古くからの歴史と伝統をもっていることの証(あかし)として、その宗派を開いたり、発展させたりした過去の偉大な僧侶の肖像を作るようになります。そんなわけで、これらの像が製作された鎌倉時代から南北朝時代にかけて、たくさんの肖像彫刻が作られました。
では、実際に作品を見てみましょう。いずれも写実的で現実感(げんじつかん)のある像で、肖像彫刻が全盛の鎌倉から南北朝時代につくられたものですが、千観・良源と伝一鎮・中巌円月ではすこし感じが違いませんか?―ここで先を読まずにすこし自分で考えてみて下さい―
―後の二人の方がより現実感があると思いませんか?その理由は、その二人の像が当時生きていた人物をモデルに作られたため、まさに生き写しといった現実感があるからです。一方、前の2躯(く)は、像が作られたときよりも300年ほど前に活躍(かつやく)した過去の有名な僧侶を、なんらかの手本(てほん)にもとづいて製作したもので、製作者がその人物を実際に見て彫(ほ)り上(あ)げたものではなく、どことなく誇張(こちょう)された表現が見られます。とくに良源(元三大師(がんさんだいし))の像は弓(ゆみ)なりに刻(きざ)まれた額(ひたい)のしわやつり上がった眼など、恐(おそ)ろしげで、現実的というよりは、すこしマンガ的に誇張された表現です。
おなじ肖像彫刻といっても、このようにいろいろ違いがあるので、細かいところまでじっくりと違いを見比(みくら)べて下さい。また彫刻作品は立体(りったい)なので、前からだけではなく、角度(かくど)をかえて斜(ななめ)めや横(よこ)からみると、また違った表情に見えてくるかもしれません。