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ロダン作 考える人(ろだんさく かんがえるひと)
美術室 伊東
1998年03月14日
庭の丸池のほとりにある、西洋のブロンズをみましたか。日本や中国の美術を専門に展示している京都国立博物館にあまり似つかわしくない、けれどずっとここにあると、何かこの博物館のシンボルのように思え、またうしろのレンガづくりの本館とうまくマッチしているようにも見えてきます。フランスの彫刻家ロダン(1840~1917)の「考える人」という作品です。
この博物館へ何度も来たことのある人なら、見た印象が、前とずいぶんちがっていることに気づくでしょう。あるいは、1997年の12月から1998年の2月初めまで、この像があの場所になかったことを知っている人がいるかもしれません。実は、そのあいだ修理をしていたのです。緑青(ろくしょう)という銅のサビが流れて表面をよごしていましたが、それを消して本来の色にもどし、さらに地震で倒れないような処置をしたのです。これでやっと、ロダンの考えた当初の創作意図に近づくことが可能となり、また、将来あるかもしれない災害にそなえることができるようになったのです。
東京の国立西洋美術館の前庭に、ロダン作の「地獄(じごく)の門(もん)」があります。巨大なこの作品の上の方に、かなり小型の「考える人」の像がついています。京都国立博物館の「考える人」の形はこれにもとづいて、さらにそこから独立させたものなのです。「地獄の門」は、ダンテ(中世から近世初頭にかけてのイタリアの詩人)の『神曲(しんきょく)』という詩編の中の「地獄編(じごくへん)」に描かれる、地獄におちた者たちを審判官(しんぱんかん)が見ている場面からきているのですが、いっぽうの「考える人」はまったく同じ形ではあっても、そのような背景はいっさい切り捨てられ、ひとりの人間の思惟(しい)している姿となっています。前の作品からその一部を借用して、そこにまったく別の意味づけを与えてしまうというはなれ術(わざ)は、何もこの像だけに限ったことでなく、いろいろなジャンルの芸術作品にしばしば見ることができます。
「地獄編」の内容から解放された「考える人」は、もはや地獄の霊魂(れいこん)について考えているのでないことはもちろんのこと、何について考えているかについては、鑑賞者(かんしょうしゃ)の自由な想像力にまかされます。
でも私はこうも思います。"考える人"は考えるというポーズをとっているだけで、本当にロダンの表現したかったのは、傾けた上体を支える右手と足の上にのせた左手という複雑(ふくざつ)な体の構成、もりあがった筋肉や異常に大きな手足などの力強さなどではないかと。そうなると作品は、背景となる意味よりも、純粋に形のもつ迫力だけで、別の次元に生きているといえます。
この作品の真正面をさがしてみてください。あるいは、もっとも見やすいアングルはどこでしょうか。なかなか決められないでしょう。そのことは、この像を見る視点がたくさんあることを意味しています。
決まった視点ではなく、鑑賞者に対してよりよい視点をさがさせる、つまり見る努力を強いる、これこそが近代彫刻の出発点でした。「考える人」のたくましい背中を見てくだい。何と雄弁(ゆうべん)な背中でしょう。