上席研究員 山本英男
2015年01月02日
古くから動物の姿(すがた)は、数多く絵画化されてきました。犬や猫(ねこ)、馬や牛といった身近な動物はもとより、虎(とら)や豹(ひょう)、麝香(じゃこう)猫(ねこ)や羊など日本には生息(せいそく)しない動物、さらに龍(りゅう)や麒麟(きりん)など想像(そうぞう)上の動物まで含(ふく)めると、本当に多種多様(たしゅたよう)です。
でも、それらの絵のほとんどは●●さんや○○君が飼(か)っている特定の犬や猫(ねこ)、馬をあらわそうとしたものではけっしてありません。むろん描(えが)く際(さい)の参考にはしたかもしれませんが、出来上がった絵それ自体はあくまで一般的(いっぱんてき)な犬や猫、馬の絵ということになるわけです。
ところが、そうした動物画の中では珍(めずら)しく、「●●さんが飼っていた動物」を描いた絵が残されています。ここではそんな絵をご紹介(しょうかい)しましょう。当館が所蔵(しょぞう)する「駿馬図(しゅんめず)」(重要文化財(じゅうようぶんかざい))がそれです。
図の上にある長い文章に、制作(せいさく)の経緯(けいい)が記されています。これを書いたのは景徐周麟(けいじょしゅうりん)(1440~1518)という相国寺(しょうこくじ)のお坊(ぼう)さん(禅僧(ぜんそう))で、詩文の制作がすごく上手な人でした。それによると、室町幕府(ばくふ)を開いた足利(あしかが)尊氏(たかうじ)(1305~58)には戦(いくさ)に出かける際(さい)にいつも騎乗(きじょう)する愛馬(あいば)がおり、その姿は尊氏の肖像画(しょうぞうが)(甲冑像(かっちゅうぞう))の中に描き込(こ)まれていたといいます。ほかでもありません、その肖像画中の馬だけを新たに写したのがこの「駿馬図」である、と景徐(けいじょ)は伝えているのです。
文章はさらに続きます。まず、この絵を描かせたのが時の将軍(しょうぐん)・足利(あしかが)義澄(よしずみ)(第11代、1480~1511)であることを明かした上で、つねに身近に置いて彼(かれ)はそれを拝(おが)んでいたといいます。要するに、勇壮(ゆうそう)な馬の姿に偉大(いだい)な先祖(せんぞ)(尊氏)を重ね合わせ、偲(しの)んでいたんですね。また、この文章の作成を己(おのれ)に命じたのも義澄である、と景徐は記しています。
ところで、この「駿馬図」ですが、尊氏の肖像画の中の馬をそっくりそのまま写したものではないようです。というのも、この馬は杭(くい)に繋(つな)がれているからです。もとの絵は尊氏が乗る姿であらわされていたわけですから、杭に繋がれていたはずはありません。
なぜ、この馬は杭に繋がれるように描(か)き改(あらた)められたのでしょうか。その理由も、景徐はちゃんと記しています。すなわち、戦で活躍(かつやく)した馬が繋がれていることは、いま世の中が平和であることを示している、というのです。また、それはひとえに、将軍である義澄の功績(こうせき)であると結論(けつろん)づけています。なるほど、いかにも文才に長けた景徐らしい見事な解釈(かいしゃく)といえましょう。
最後になりましたが、この「駿馬図」の作者についても少しばかり触(ふ)れておきたいと思います。この点について景徐は単に「画工(がこう)」(絵師(えし))と記しているだけなので、まったく手がかりは得られません。しかし、将軍の命令で制作するのですから、この「画工」が将軍家の周辺にいた超一流(ちょういちりゅう)の絵師(えし)であったことは間違(まちが)いないでしょう。また「駿馬図」を形づくる非常(ひじょう)に繊細(せんさい)で均質(きんしつ)な描線(びょうせん)に注目すると、これを描いたのは水墨画(すいぼくが)を得意としたいわゆる漢画(かんが)系(けい)の絵師ではなく、絵巻物(えまきもの)などを主に手がけた大和絵(やまとえ)系(けい)の絵師だった可能性(かのうせい)が高まります。もしそうなら将軍家(しょうぐんけ)の御用を務めた大和絵(やまとえ)絵師家(えしけ)の名門・土佐派(とさは)などは、その最有力候補(こうほ)に挙げられることになるでしょう。
ともあれ、この「駿馬図」は、馬の肖像画とでも称(しょう)すべき作品です。もしあなたが犬や猫を飼っていれば、その肖像画を描いてみませんか。いまよりもずっとずっと愛着(あいちゃく)が湧(わ)くと思いますよ。
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