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「サイン」はどこに?
美術室 呉孟晋
2015年03月17日
頭に「帛(はく)」という白い頭巾(ずきん)を被(かぶ)り、体にゆったりとした白い衣をまとって岩の上に坐(すわ)る観音菩薩(かんのんぼさつ)を描(えが)いた「白衣観音図(びゃくえかんのんず)」です。観音菩薩は、仏教(ぶっきょう)で人が亡(な)くなった後に極楽浄土(ごくらくじょうど)に導(みちび)く阿弥陀如来(あみだにょらい)のお供(とも)をする仏(ほとけ)さまで、他人を思いやる「慈悲(じひ)」の心を表(あら)わしています。上質(じょうしつ)な絹(きぬ)の上に水墨(すいぼく)だけで描かれたその姿(すがた)からは、観音さまの優(やさ)しさが伝わってくるかのようです。このような画(え)を描くことができた画家の才能(さいのう)には、感嘆(かんたん)するほかありません。
さて、ここで問題です。この画を描いた画家は誰(だれ)でしょうか?答えの手がかりは画の中にありますので、よく見てください。
ふつう、博物館の学芸員が初めて見る絵画の作者を知ろうとするとき、作品の端(はし)っこをじっくりと見ます。たいてい、画面の左右の端に画家の名前を記した「サイン」を見つけることができます。中国や日本の絵画ではこれを「落款(らっかん)」といいます。「落成款識(らくせいかんし)」を略(りゃく)した言い方で、作品が完成した記念に書き入れた署名(しょめい)という意味です。
まず、遠くからこの画の全体を見ると、観音さまの頭の上に漢文の詩が書かれているのに気がつきます。縦(たて)書きですので、詩は画面向かって右側から始まります。最後の五行目に「天童雲岫(てんどううんしゅう)」とあるのは作者の名前を表わします。しかし、この名前を画の作者のものと早合点(はやがてん)してはいけません。これは漢詩(かんし)を作り、画の上に書き記した作者の名前です。画に合わせて書かれた詩を「賛(さん)」とよびます。
「天童(てんどう)の雲岫(うんしゅう)」とは、中国の沿岸部(えんがんぶ)にある明州慶元府(めいしゅうけいげんふ)(現在の浙江省(せっこうしょう)寧波市(にんぽーし))にある天童山(てんどうざん)景徳禅寺(けいとくぜんじ)の住職(じゅうしょく)をつとめた雲外雲岫(うんがいうんしゅう)(1242~1324)のことです。曹洞宗(そうとうしゅう)の宏智派(わんしは)の高僧(こうそう)で、鎌倉(かまくら)時代末期に来日して鎌倉の円覚寺(えんがくじ)や建長寺(けんちょうじ)の住職となった東明慧日(とうみんえにち)は弟弟子(おとうとでし)にあたります。雲岫が天童山(てんどうざん)にいたのは晩年(ばんねん)の中国・元(げん)時代の至治(しち)年間(1321~1323)のことですので、この作品が14世紀前半の中国で描かれたことがわかるのです。
それでは、答えの発表です。茸(きのこ)のような形をした岩座(いわざ)の傘(かさ)の部分の左下側に「正悟(しょうご)」と読める二文字が見えるでしょうか。観音さまの右側の裾(すそ)の端からそのまま下に視線(しせん)を落としてください。台形を逆(さか)さにしたかのような岩の突起(とっき)の左端(ひだりはし)に文字が書かれています。岩のごつごつとした表現(ひょうげん)に隠(かく)れて文字が見えにくくなっていたのです。これを「隠(かく)し落款」といいます。
隠し落款は、中国の宋(そう)時代(960~1279)にさかんにおこなわれた書き方です。宋時代の絵画の主流は山水の風景を描いた作品で、ごつごつとした山肌(やまはだ)はもちろん、霧(きり)や靄(もや)といった大気の状態(じょうたい)も忠実(ちゅうじつ)に表現しようとしました。画家たちのなかでも皇帝(こうてい)に仕える者もおり、芸術家(げいじゅつか)としての自信も芽生えてきました。丹精(たんせい)をこめて描いた作品の世界を壊(こわ)したくない。とはいっても、せっかく描いたのだから自分の名前を残しておきたい。この相反(あいはん)する画家の願いに応(こた)えたのが、隠し落款だったわけです。作品のなかの風景に小さく隠れるように書き入れているので、一見しただけではどこにあるのか分かりません。でも、見る人が見れば、画家の名前が分かります。そんな、「遊び」を楽しむのが「通(つう)」のやり方だったのです。たとえば、京都・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たっちゅう)の高桐院(こうとういん)にある国宝(こくほう)の「山水図」は20世紀に宋時代の宮廷画家(きゅうていがか)・李唐(りとう)の隠し落款が発見されて、俄然(がぜん)注目が集まった中国絵画の名品です。
残念ながら、この観音図を描いた「正悟」という画家の経歴(けいれき)は分かっていません。賛を記した雲岫と同じ浙江省の寧波にいたお坊(ぼう)さんの画家でしょうか。当時の寧波は中国でも有数の貿易港(ぼうえきこう)で、日本との交易(こうえき)の窓口(まどぐち)になっていました。さらに、仏教が盛(さか)んに信仰(しんこう)され、仏画(ぶつが)の一大生産地でもありました。日本人にとって当時の中国は最新の文化芸術(げいじゅつ)の発信地であり、中国の絵画は大変貴重(きちょう)で、宝物(たからもの)のように珍重(ちんちょう)されました。寧波で制作(せいさく)された優(すぐ)れた仏画は今日も日本に数多く残っています。この画の作者「正悟」の謎(なぞ)を解(と)き明(あ)かす未来の学芸員は、この解説(かいせつ)を手に取ったあなたかもしれませんね。