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世界に一つだけの顔
企画室 井並 林太郎
2018年01月23日
皆(みな)さんは家族や友達の顔や体を、じっくり観察してみたことはありますか?大きな目の人、鼻の丸い人、太った人など、それぞれに個性(こせい)があって、似(に)た人はいても同じ見た目の人は一人としていませんね。しかもそれは知り合いの間だけでなく、世界中にも、そして人類の歴史上にも、おそらく見た目のまったく同じ人はいないのです。考えてみると不思議なことですね。
写真のない時代、人物の顔や姿(すがた)は、それを写した絵や彫刻(ちょうこく)の「肖像(しょうぞう)」として記録され、後の時代に伝えられました。肖像(しょうぞう)の制作(せいさく)は古代から世界中で行われてきましたが、時代や地域(ちいき)によって、顔のどこに注目するか、どんな表情(ひょうじょう)やポーズにするかなど、表現(ひょうげん)の方法は様々に異(こと)なりました。そもそも、すべての肖像(しょうぞう)が後の時代の人々に伝えるためだけに作られたとは限(かぎ)りません。たとえば古代エジプトには、死者の肖像画(しょうぞうが)をそのミイラとともに埋葬(まいそう)する風習があったようです。
日本では平安時代(へいあんじだい)の中期まで、歴史上の偉(えら)いお坊(ぼう)さんや伝説の聖人(せいじん)などを描(えが)くことはあっても、同時代に生きる貴族(きぞく)の肖像(しょうぞう)はほとんど制作(せいさく)されなかったと言われています。しかし、平安時代の終わりから鎌倉(かまくら)時代にかけて、一転して同時代の人々の肖像(しょうぞう)がたくさん作られるようになります。その中で「似絵(にせえ)」という言葉が生まれました。似絵(にせえ)とは、周囲の人物の特徴(とくちょう)をとらえて描(えが)き分ける肖像画(しょうぞうが)のことで、多くが細い線を重ねてスケッチするように表しています。今だと似顔絵(にがおえ)に近い感覚でしょうか。似絵(にせえ)の文化は貴族(きぞく)の間に定着して、彼(かれ)らの財産(ざいさん)であった牛馬や、天皇(てんのう)・上皇(じょうこう)の御姿(みすがた)までを写し取りました。
その似絵(にせえ)の代表作が「公家列影図(くげれつえいず)」(鎌倉時代、13世紀)(図1)です。「公家(くげ)」とは貴族(きぞく)のこと。「影(えい)」は肖像(しょうぞう)のこと。つまり貴族(きぞく)の肖像(しょうぞう)を並べた図という意味です。巻物(まきもの)に描(えが)かれた貴族(きぞく)たちは、なんと57人。皆さんのクラスの人数よりもきっと多いでしょう。もしクラス全員の似顔絵(にがおえ)を描(えが)けと言われたら、一人一人の特徴(とくちょう)をとらえるのは案外(あんがい)大変なのではないでしょうか。
ただし、この作品に描(えが)かれた人たちは、全員が同じ時代に生きたわけではありません。巻物(まきもの)の一番初めに描(えが)かれた藤原忠通(ふじわらのただみち)は、西暦1097年から1164年まで生きました。最後は1218年から1294年まで生きた花山院定雅(かざんいんさだまさ)と推測(すいそく)されています。100年以上の差がありますが、それぞれの時代に描(えが)き足されたのではなく、最初から最後まで一度に描(えが)かれています。つまり、画家は必ずしも実物を目の前にして描(えが)いたわけではなく、すでに残されていた過去(かこ)の肖像(しょうぞう)を写してこの作品を制作(せいさく)したと考えられます。ただ肖像(しょうぞう)を写すときには、後の時代の人々が思(おも)い描(えが)いた人物像(じんぶつぞう)に基(もと)づいて、表現(ひょうげん)がほんの少しだけ変化することがあります。
(図2)の吊(つ)り目(め)の人物は、個性的(こせいてき)な性格で知られる藤原頼長(ふじわらのよりなが)。理想の政治(せいじ)を追求し勉学に励(はげ)んだ一方、強引で厳(きび)しい性格(せいかく)が周囲との対立を生み、「悪左府(あくさふ)」(左府(さふ)は左大臣(さだいじん)のこと)と呼(よ)ばれ恐(おそ)れられました。吊(つ)り上(あ)がった目は、そうした頼長(よりなが)の怖そうなイメージを伝えているのかもしれません。
(図3)は『平家物語』でもおなじみ、平清盛(たいらのきよもり)です。武家(ぶけ)でありながら正三位(しょうさんみ)という官位を得て公卿(くぎょう)に列(れっ)したため、この絵にも描(えが)かれています。顎(あご)が大きく、他の貴族(きぞく)とは違(ちが)って、武家(ぶけ)の棟梁(とうりょう)らしく逞(たくま)しい印象で表されていますね。
(図4)のいかにも繊細(せんさい)そうな人物は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)第3代将軍(しょうぐん)の源実朝(みなもとのさねとも)です。頼朝(よりとも)と北条政子(ほうじょうまさこ)の間に生まれ、12歳(さい)で将軍(しょうぐん)となりましたが、実権(じっけん)をもつことなく、和歌に心を傾(かたむ)けました。最期は28歳(さい)の若(わか)さで暗殺されてしまいます。こうした悲劇的(ひげきてき)な人生が、儚(はかな)げな表情(ひょうじょう)に反映(はんえい)されているのでしょうか。
歴史を勉強するとき、ただ教科書を読むだけでは、そこに登場する人々がかつて本当に存在(そんざい)して、悩(なや)んだり喜んだりしたことに、なかなか実感がわかないものです。人物の肖像(しょうぞう)を丁寧(ていねい)に描(えが)いたこの作品は、遠い過去(かこ)に生きた彼(かれ)ら一人一人の顔だけでなく、人となりや人生さえも、現代(げんだい)の私(わたし)たちに伝えてくれているのです。