美術室 山本
1997年04月12日
まずは絵の写真をみてみましょう。
場面は小さな川が流れ込む沼のようなところ。水辺には草や竹なども描かれています。後ろには高い山があらわされていますが、まわりの景色は霧(きり)や靄(もや)にかすんでしまっていて、よくみえません。たぶん、湿度が高いのでしょう。絵の中ほどには、みすぼらしい姿をした男が立っています。顔は髭(ひげ)だらけで、なんとも異様な風体(ふうてい)ですが、もっと変なのは両手に大きな瓢箪(ひょうたん)をもっていることです。しかもその瓢箪を差し出した先には、一匹の巨大な鯰(なまず)も描かれています。いったい、この男は何をしているのでしょうか。この絵は何をあらわしているのでしょうか。ほかに例のない、実に不思議な絵です。
例がないといえば、絵の上に施された詩の数の多さも同様でしょう。絵の上に詩を書くということは室町(むろまち)時代の水墨画(すいぼくが)ではけっして珍しいことではありませんが、ふつうどんなに多くても十数詩ほど。それに対してこの絵にはひとり一詩ずつ、全部で三十一もの詩があらわされているのです。しかも詩を書いた人たちの顔ぶれは、すべて十五世紀初め頃の京都の大禅宗寺院のトップクラスばかりです。先に述べた奇妙な図柄といい、こうした詩の多さといい、この作品がかなり特殊なものであることは容易に想像できることでしょう。
幸い、この絵の上には詩とともに制作のいきさつを記した文章が添えられています。それによると、この作品は「瓢箪で鯰をおさえとることができるか」というテーマに基づいたものであることがわかります。発案者は室町幕府の第四代将軍の足利義持(あしかがよしもち=1386-1428)で、その命令により、絵は如拙(じょせつ)という画僧(がそう=僧でありながら絵も描く人)が描き、またその問いに対する答え(思いや感想)を禅僧たちが詩の形で書き付けたこともそこに記されています。なるほど、そういわれると、確かに先の図柄もそのようにみえますし、また将軍の命令であれば、数多くの高僧たちがこぞって参加しているのも当然のことといえましょう。
では、本当に「瓢箪で鯰をおさえとる」ことができるのでしょうか。いやいや、そんなことができるはずはありません。たぶん発案者の義持でさえ、正しい答えが示されるとは思っていなかったでしょうし、はじめから期待もしていなかったことでしょう。むしろ義持にとっては、こういった難しいテーマを如拙や禅僧たちといっしょに考えることこそが第一の目的であり楽しみであったのです。そもそも「瓢箪で鯰をおさえとる」というテーマは「鮎魚(ねんぎょ。本来、『鮎』は鯰を意味する)竹竿(ちっかん)に上(のぼ)る」(苦労して成功するという意味)という中国のことわざを土台として、それに瓢箪を付け加えたものと考えられています。つまり、鯰や竹(絵の中に竹が描かれていたことを思い出してください)から連想される「滑(すべ)る」というイメージに、やはりツルツルした瓢箪を加えて成ったのが、先のテーマなのです。なんとも、ひとを食った問い掛けというべきでしょう。これは明らかに知的な遊びです。
ですから、如拙にしても禅僧たちにしても、楽しみながら実に意欲的にそれぞれの仕事をこなしているようです。まず如拙においては鯰・瓢箪・竹・水流・岸辺などいずれも「滑る」を強調するように曲線的に描く一方、瓢箪をもつ男だけを直線的に滑稽(こっけい)に表現することで、巧妙(こうみょう)に男の行為の愚(おろ)かさをあらわしています。禅僧たちの方はというと、各人が勝手な想いを書き付けているようにみせながら、実は連句(れんく=一種の連想ゲーム)という高度なテクニックを使ってお互いに言葉の遊びを行っているのです。また、先のいきさつを記した文章の中に「(義持公が投げかけた問いは)たいへん深い意味がある」というくだりがあるのですが、これを真剣にとらえてはいけません。おそらくこの文を書いた禅僧は笑いをかみ殺しながらしたためたことでしょうし、これを読んだ義持はきっと腹を抱えて笑い転(ころ)げたに違いないからです。
義持を中心とする集(つど)いがいかに自由な雰囲気(ふんいき)に満ちていたかをはっきりと物語るこの「瓢鮎図」。室町時代水墨画中の傑作(けっさく)です。
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