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伝牧谿筆 遠浦帰帆図―瀟湘八景図について― (でんもっけいひつ えんぽきはんず―しょうしょうはっけいずについて―)
美術室 西上
1997年07月12日
この掛け軸(かけじく)はずいぶん横長の画面になっています。これはもともと長い巻き物だったのですが、その一部を切り取って、掛け軸に仕立て直してあるからです。
図の後ろの方、向かって左下角に「道有(どうゆう)」と読めるハンコが押されています。これは室町(むろまち)時代の三代目の将軍(しょうぐん)、足利義満(あしかがよしみつ:1356~1408)の印章(いんしょう)です。道有は、義満が晩年、出家して、お坊さんになった時の名前です。この「道有」印は、義満がこの図の持ち主であることを示すためにわざわざ押したハンコで、こういうハンコを作者が押す落款印(らっかんいん)と区別して、鑑蔵印(かんぞういん)と呼びます。
現在、この図と連れになるような掛け軸が、例えば根津(ねず)美術館の「漁村夕照図(ぎょそんせきしょうず)」など他にも何幅か残っていて、やはり「道有」印が押されています。
これらの図をつなげたもともとの巻き物は、13世紀、中国南宋(なんそう)時代の牧谿法常(もっけいほうじょう)というお坊さんが描いたと考えられる瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)です。牧谿は宋の都である杭州(こうしゅう)の西湖(せいこ)のほとり、六通寺(りくつうじ)というお寺にいた禅僧(ぜんそう)ですが、絵が得意で、観音(かんのん)・羅漢(らかん)など仏教的主題のものばかりでなく、龍・虎・猿・鶴・雁などの動物、松竹梅などの花木や、山水などを、大胆な筆使いの水墨画(すいぼくが:墨絵(すみえ))で描きました。
当時、日本と宋との関係は緊密で、中国の仏教を学ぶためにたくさんのお坊さんが宋に渡るなど、文化的な交流も盛んでした。
牧谿の絵もこれら入宋僧(にっそうそう)などにより日本にもたらされた後、中国の新しい芸術傾向を示すものとして日本の鑑賞家の間で注目され、愛好されていったようです。足利義満もこうした牧谿画愛好家の一人だったといえます。
その後の中国では、牧谿の絵は筆法がやや粗野(そや)であるといわれて、それほど高く評価されず、次第に忘れ去られてゆくのに対し、日本では、この瀟湘八景図巻や、京都の大徳寺(だいとくじ)にある「観音猿鶴図(かんのんえんかくず)」のような牧谿のすぐれた作品がもたらされたこともあって、中国を代表する最高の画家として崇拝(すうはい)され、彼の画風は「和尚様(おしょうよう)」と呼ばれて日本の水墨画のお手本にされ、その形成発展に大きな影響を及ぼしてゆきます。
さて、瀟湘八景図というのは、中国湖南省(こなんしょう)の瀟水(しょうすい)と湘水(しょうすい)という二つの川が合流して洞庭湖(どうていこ)に注ぎ込む一帯の景色を、平沙落雁(へいさらくがん)・遠浦帰帆(えんぽきはん)・山市静嵐(さんしせいらん)・江天暮雪(こうてんぼせつ)・洞庭秋月(どうていしゅうげつ)・瀟湘夜雨(しょうしょうやう)・煙寺晩鐘(えんじばんしょう)・漁村落照(ぎょそんらくしょう)という八つの場面を選んで、景ごとに描き分けた図です。
瀟湘の一帯は、昔から歌にもよまれる風光明媚(ふうこうめいび)な所ですが、11世紀の中頃、北宋(ほくそう)時代の文人画家(ぶんじんがか)、宋迪(そうてき)という人が、さきほどの八景にまとめて描き始めたといわれています。その絵は今は伝わっていませんが、どこどこの場所から描いたということがわかるような特定の景観にこだわった図柄ではなく、瀟湘地方特有の煙霧(えんむ)に包まれた景色を写し出したものであったようです。
そしてその構図には、宋迪が得意にした平遠(へいえん)という、水平線が伸び上がるような俯瞰的(ふかんてき)な形式を採用していたであろうともいわれています。
宋迪以後、瀟湘八景図は中国ばかりでなく、朝鮮や日本にも伝わって盛んに描かれます。琵琶湖(びわこ)周辺の景色を選んだ近江(おうみ)八景などもこの瀟湘八景にならったものです。
この遠浦帰帆図は、瀟湘八景図の伝統を継承しながら、巧みな墨調(ぼくちょう)の変化と簡潔な筆使いによって、大気の動きや明暗をとらえ、風に帆をふくらませて近づく二艘(そう)の帆船(はんせん)やこれを眺(なが)めて身支度(みじたく)を始める船着き場の人々の様子を生き生きと描き出しています。
水墨画の妙味(みょうみ)を余すところなく伝えているこの画は、まさに牧谿会心(かいしん)の作といえましょう。足利義満の後、この図は、織田信長(おだのぶなが)の持ち物となり、以降、好事家(こうずか)や鑑賞家(かんしょうか)の間で大変に高く評価されて伝えられてきたのです。