美術室 若杉
1997年08月09日
大きな船が、龍の背に乗って荒海を進んで行く様子が描かれています。ダイナミックに描かれたこの不思議な光景はそれだけで驚かせられますが、この龍が、美女が変身したものだと知ったらもっと驚くことでしょう。
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この女性は、中国唐(ちゅうごくとう)時代に、ある港町に住んでいた長者の娘で、名を善妙(ぜんみょう)といいます。彼女は、新羅(しらぎ)の国から仏教の勉強のためにやってきた僧が美男であることを知り、憧(あこが)れていました。義湘(ぎしょう)という名のその僧が、たまたま彼女の家に托鉢(たくはつ)に訪れたとき、善妙は自分の恋心を伝えます。けれども、義湘は「自分は僧であるから、恋を受け入れることはできない。その心をもっと広く持って仏法(ぶっぽう)を支える気持ちになさい」と諭(さと)します。
やがて、留学を終えて義湘は帰国します。出航したあとにそれを知った善妙は、義湘のために取り揃えていた仏具(ぶつぐ)などを持って港に行きますが、船は遠くにかすんでいます。善妙は、仏具の箱を船に向かって投げ入れ、そして自分も海に飛び込みます。すると、善妙の心の深さのために、その身が龍に変わり、義湘の航海を守ることになるのです。
この絵巻では、長い画面の中に物語を連続して描いていることで、見る人を物語の中に引き込んでいく強い力が感じられます。この場面は、この絵巻のクライマックスですが、そこに至るまでの、善妙が義湘の出発を嘆き悲しむ場面、仏具の入った箱を海に投げる場面、自ら身を投げて龍に化身(けしん)する場面という展開を、実にリズミカルに描いていて、見る人の気持ちがしだいに盛り上がっていきます。いまから750年以上も前に、日本ではこれほど躍動的(やくどうてき)な絵が描かれていたのです。
この絵巻は、京都市の西北、紅葉で有名な栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)に伝わったものです。高山寺は、鎌倉(かまくら)時代の初めに活躍した明恵上人(みょうえしょうにん)が、華厳宗(けごんしゅう)の道場として復興(ふっこう)したもので、この絵巻も、明恵上人の発案で制作されたものと考えられています。物語の主人公である義湘(625~702)は、古代朝鮮(ちょうせん)の新羅の国の僧で、この物語のもとになったのは、中国で編纂(へんさん)された僧の伝記集(でんきしゅう)に収められた義湘の伝記ですが、絵巻の制作にあたっては、善妙の献身(けんしん)の物語を主要なテーマとしています。この構成には、明恵上人が同じ思想を持つ先輩(せんぱい)として義湘に憧れ、自分を義湘になぞらえようとする心が反映 しています。特に、上人が望みながら果たせなかった留学を義湘は実行し、さらに唐で善妙という、仏法の擁護者(ようごしゃ)の女性を得たことは、明恵の心に強く印象づけられ、善妙を神のようにあがめ、自分にとっての善妙を求める気持ちを強く持っていました。この絵巻は、明恵上人のこうした気持ちを反映して作られたものです。この絵巻は全体としてこの善妙の起こした奇跡の意味を解き明かし、自分にとっての善妙にこれを説くために作られたものと考えられています。
ところで、明恵上人は誰を善妙に見立ててこの絵巻を作ったのでしょうか。承久(じょうきゅう)元年(1221)、源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺(あんさつ)されて鎌倉幕府(かまくらばくふ)が動揺(どうよう)したとき、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は倒幕(とうばく)の兵を挙(あ)げますが、幕府軍によってこの反乱はすぐに鎮圧(ちんあつ)されてしまいます。承久の乱と呼ばれるこの戦いで、京都の公家(くげ)に多数の死者が出ましたが、その夫人たちは明恵上人を頼って栂尾にかくまわれます。上人にとっての善妙は、この女性たちで、彼女たちを出家させ、そのために善妙寺(ぜんみょうじ)という寺を建て住まわせることにしました。そして、この女性たちに、善妙の物語を説き、華厳の擁護者としたのだと考えられています。戦いで夫を失った女性たちが、この絵巻を見て善妙に共感し、上人にしたがって仏法を支える心と自らの救済(きゅうさい)を願う気持ちをもったことが想像されます。
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