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国宝 十二天像(じゅうにてんぞう)
美術室 泉
1998年01月10日
お正月はなんとなくわくわくします。年が新しくなって、まるで古い殻(から)を脱ぎ捨てたセミのような気がします。暦(こよみ)ができてからというもの、これは誰しもが感じていたことです。いやな思い出やつまらない出来事はすべて前の年が持ち去ってしまい、まだ誰も足跡を残していない雪の地面を目の前にしているように、なにかすばらしいことが待っていると考えるのです。神社などへの初もうでは、そうした期待がかなえられることを祈(いの)るために行われているのです。
さて、初もうでは、たいてい、ひとりひとりがそれぞれの幸福を願うというものですが、日本の国全体の幸福を祈る時はどうしていたのでしょうか。
平安(へいあん)時代の話になりますが、当時政治をになっていたのは、天皇や貴族たちからなる宮廷でした。そこでは、日本全体の幸福を祈るさまざまな行事が年の初めに行われました。正月の宮廷は休みがないほど忙しかったのです。その一連の行事には、仏教的な儀礼(ぎれい)もいくつか含まれていました。そのうちもっとも効力(こうりょく)があると期待されたのが、「後七日御修法」(ごしちにしの/みしほ)と呼ばれる儀礼だったのです。
この儀礼は、天皇がすこやかであること、大きな災害が起きないこと、稲や麦などの穀物(こくもつ)が豊かに稔(みの)ることを祈るために行われました。「後七日」というのは、後の七日ということで、正月の最初の週ではなく第二週目の七日をその儀礼に当てていたのです。「修法」(しゅほう、ずほう、とも読む)というのは、呪文(じゅもん)やまじないの力をだいたんに取り入れた密教(みっきょう)という仏教の宗派が得意としていたもので、尊い儀礼であることを表わす「御」の字を頭につけた時だけ、特に「みしほ」と呼びならわしていました。
この大事な儀礼を宮廷でとりおこなう責任者は、密教の僧の最高位にある人物でした。それを東寺(とうじ)の長者(ちょうじゃ)といいます。マンダラを中心にすえ、いろいろな仏画をかけならべ、護摩(ごま)をたいて必死に祈ったものでした。毎年毎年、東寺長者が宮廷に出向き、おごそかに行なわれていたのです。
そうしているうち大治(だいじ)二年(1127)という年に、この儀礼でかける予定の仏画が焼けてしまいます。それはたいへん、と、さっそく新しい仏画の作成にとりかかりますが、予想もしていなかった事故だったので、すこしあわてました。とりあえず弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)時代の手本をもとに描きました。ところが、宮廷の最高実力者だった鳥羽院(とばいん)から仕上りが悪いとお叱(しか)りが出ました。そこで再び別の手本にもとづいて制作しました。こちらは特に不満だったという話も聞かないので、たぶん鳥羽院のお目にかなったのでしょう。
その時の仏画が、なんとそのまま残っているのです。「十二天像(じゅうにてんぞう)」がそれです。十二天とは、東西南北上下ほか十二の方角を支配するインド由来の神々です。風の神(風天(ふうてん))や水の神(水天(すいてん))、
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国宝 十二天像 風天 <京都国立博物館蔵>
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国宝 十二天像 水天 <京都国立博物館蔵>
火の神(火天(かてん))をはじめ地獄の神(閻魔天(えんまてん))まで、さまざまな神が含まれています。彼らには儀礼の場所を守護(しゅご)する力があるのです。ひとつひとつの画面を見て下さい。まろやかな形と調和のとれたプロポーションがまず印象的です。なかには色がすっかり変わって浅黒くなっているものもありますが、ほとんどのものは色彩がはなやかで、描写がこまかく、入念な仕上りになっています。衣服部(いふくぶ)には切金(きりかね)という、金箔(きんぱく)を細く切って文様を表わす技法も用いられていますが、現在これをまねしようと思っても、なかなかまねできないほどの根気のいる作業なのです。いかにも、平安時代の宮廷が太鼓判(たいこばん)を押したみごとな画像といえるでしょう。
東寺ではいまも毎年正月にこの儀礼が行われています。伝統の重みを感じさせます