美術室 山本
1998年10月10日
皆さんは、雪舟(せっしゅう:1420~1506?)という画家を知っていますか。その名前を聞いて、すぐに「室町(むろまち)時代に活躍した有名な水墨画家(すいぼくがか)です」と答えられる人は、やはり多くはないと思います。ましてや、「天橋立図(あまのはしだてず)」(国宝・京都国立博物館蔵)
や「秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)」(国宝・東京国立博物館蔵)などの彼の作品を具体的にイメージできる人は、だぶん、ほとんどいないのではないでしょうか。
では、これと同じ質問を皆さんのお父さんやお母さん、おじいさんやおばあさんにしたとしたら、どうでしょう。実際にこの種の質問をしたことがないので確かなことはいえませんが、少なくとも雪舟という名前だけはよくご存じのはずです。なぜだかわかりますか。今でこそあまり取り上げられなくなってしまいましたが、昔の国語の教科書などには雪舟の子供時代の話が載(の)せられていたからなのです。
その話は、今の岡山県総社市(おかやまけんそうじゃし)の宝福(ほうふく)寺という禅宗(ぜんしゅう)のお寺が舞台です。禅僧になるため、幼くしてこの寺に入った少年(のちの雪舟)は、禅の修行はそっちのけで、好きな絵ばかり描いて日々を過ごしていました。それに腹を立てた住職(じゅうしょく)は、ある朝、少年を本堂の柱に縛(しば)りつけてしまうのですが、少し可哀想(かわいそう)に思い、夕方になって、本堂を覗(のぞ)いてみることにしました。すると、少年の足もとで一匹の大きな鼠(ねずみ)が動き回っているではありませんか。少年が噛(か)まれては大変と思い、住職はそれを追い払おうとしましたが、不思議(ふしぎ)なことに鼠はいっこうに動く気配(けはい)がありません。それもそのはず、その鼠は生きた鼠ではなく、少年がこぼした涙を足の親指につけ、床に描いたものだったのです。はじめ動いたようにみえたのは、鼠の姿がまるで本物のように生き生きととらえられていたからにほかなりません。それ以後、住職は少年が絵を描くのをいましめることはけっしてありませんでした。
この話は、江戸(えど)時代の初め頃、狩野永納(かのうえいのう:1631~97)という画家が著(あら)わした『本朝画史(ほんちょうがし)』(日本の画家のプロフィールなどを記(しる)したもの)という本に初めて登場するものです。本に載るくらいですから、すでにその頃には多くの人びとの間で語られていた話なのでしょう。しかし、この話―とくに涙で鼠を描いたというくだり―が事実であったかと問われると、残念ながら「そうではない」と答えざるをえません。考えてもみてください。いくら絵が上手でも、涙を使って、しかも足の指で描いた鼠が動き出すほどリアルであるはずはないのです。「雪舟ほどの大画家であれば、すでに少年時代からすごい才能を発揮(はっき)していたに違いない」という人びとの想(おも)い。そんな願望(がんぼう)にも似た思い入れが、こういった話を生み出す要因(よういん)となったのでしょう。
このように、雪舟が涙で鼠を描いた話は単なる作り話にすぎません。ですが、前にも述べたように、皆さんのお父さんやお母さんたちが「雪舟」という名前を知ったのは、多くの場合、この逸話(いつわ)をきっかけとしています。その点からすれば、この作り話は雪舟の名前をすごくポピュラーなものにした、最大の「功労者(こうろううしゃ)」であるといえるかもしれません。しかもその内容が少年時代の雪舟を扱(あつか)ったものであるだけに、可愛(かわい)い小坊主(こぼうず)のイメージ―例えばとんちの一休さんのような―が形づくられることになります(本当は、まだ剃髪(ていはつ)していない喝食(かっしき)の時代かもしれませんが)。偉大(いだい)な画家とされながら、他の有名画家とは異なって、どこか親しみやすい感じがするのも、おそらくはそのせいなのでしょう。
ここでは、雪舟が最晩年(さいばんねん)に描いた「天橋立図」(国宝)と、若い頃(拙宗(せっそう(せっしゅう))と名乗っていた時代)の作とされる「楼閣山水図(ろうかくさんすいず)」(重要文化財・京都国立博物館蔵)をご覧いただきましょう。
西洋の風景画を見慣(みな)れた目には少しばかり異和感(いわかん)があるかもしれませんが、小坊主・雪舟の姿をそこに重ね合わせてみて下さい。急に身近に感じられるかもしれませんよ。
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