工芸室 久保
1998年09月12日
皆さんの家にある鏡はたいていガラス製だと思いますが、江戸(えど)時代までは青銅(せいどう:銅(どう)に錫(すず)や鉛(なまり)を加えたもの)でできた銅鏡(どうきょう)が使われていました。実をいうと、文様のある側は鏡の裏面です。反対側が表面を錫でメッキしてきれいに磨(みが)いた鏡面 (きょうめん)で、まだ顔がよく映るものも少なくありません。
さて、今回は持ち手(柄(え))のついた「柄鏡(えかがみ)」の話です。日本の銅鏡は、弥生(やよい)時代いらい二千年近くの歴史をもっていますが、その大半は円形の鏡で、柄鏡が登場したのは比較的(ひかくてき)新しく、室町(むろまち)時代後期、16世紀初めごろのことでした。柄付きの鏡は、これよりも早く、中国・宋(そう)時代(12~13世紀)や韓国・朝鮮(ちょうせん)時代(15世紀ごろ)に例が見られ、日本にももたらされていました。とくに朝鮮時代の菊花散凹面柄鏡(きくかちらしおうめんえかがみ)は、同じ形のものが国内各地の寺院や神社に何面も伝えられています。
日本の初期の柄鏡には、柄の取り付き部分に円鏡(えんきょう)を受けるような段がついていますが(松竹双鶴鏡(しょうちくそうかくきょう))、これは朝鮮柄鏡の柄取り付き部の形とたいへんよく似ています。
また先ほど、鏡の柄を「持ち手」と書きましたが、最初のころは、少し違った意味もあったようです。やはり16世紀初めごろに書かれた『御飾記(おかざりき)』という本の、座敷(ざしき)の床ノ間(とこのま)の飾りつけ図を見ると、左端の床柱(とこばしら)に柄鏡がぶら下げられています。おそらく今の壁掛け鏡のようなものでしょう。
これが朝鮮製が、日本製か確かなことはわかりませんが、同じような使い方をしたと思われる、先に穴をあけた短い柄付きの掛け鏡が、朝鮮の少し前、高麗(こうらい)時代に流行しており、菊花凹面柄鏡もひょっとしたら掛け鏡であったかも知れません。とすれば、日本の柄鏡は、形だけでなく使い方も含めて、韓国の鏡の影響を受け作り出されたと言えるでしょう。
ところで皆さんは、小さな鏡で自分の顔を見たとき、狭(せま)い範囲(はんい)しか映らないのでもっと大きな鏡で見たい、と思ったことはありませんか。日本の柄鏡も、初めは鏡面が直径10㎝ぐらいまでしかありませんでしたが、江戸時代に入るころには、4寸、5寸、6寸(1寸は約3㎝)といったより大きな鏡面規格(きかく)ができ、17世紀も終わり近くになると、8寸前後の大型鏡もよく使われるようになりました。このような鏡の大型化は、女の人の髪型(かみがた)がふっくらと大きくなったことによる、という説もあります。
ともあれ鏡の面が大きくなったことにより、裏面に描かれる文様も、じつに多くの図柄(ずがら)が見られるようになりました。着物や蒔絵(まきえ)道具類、焼物(やきもの)など、ほかの工芸品とも共通した、人びとに好まれる題材が生き生きと表されます。とくに松竹梅(しょうちくばい)や鶴亀(つるかめ)、「難(なん)を転(てん)ずる」という意味に引っ掛けた南天(なんてん)といったおめでたい文様は、人々の生活になくてはならないものだったでしょう。
家紋(かもん)入りの鏡は、それを使う家と人の自己主張(じこしゅちょう)が感じ取れます。また富士三保松原図(ふじみほのまつばらず)や近江八景図(おうみはっけいず)などは、まだ見ぬ名所(めいしょ)、そして旅へのあこがれが反映(はんえい)されているように思えます。
柄鏡の文様。それはまさしく、江戸時代の人びとの心を映す「鏡」だったのです。
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