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江戸時代のきものデザイナー
工芸室 河上
2000年07月08日
なぜ、人は服を着るのでしょうか?裸だと寒いから?恥ずかしいから?この答えも間違いではありませんが、服を着る意味は場合によって異なってきます。現代は個人の自由が尊重(そんちょう)される社会だから、どんな恰好(かっこう)をしてもいいはずですが、会社で働くお父さんはみんな同じようなスーツを着ていたり、街(まち)をいく女の子たちはカプリパンツにミュールと流行(りゅうこう)にはまっています。
かつて、江戸時代に出版された『正徳ひな形(しょうとくひながた)』というきものデザイン集には「衣装(いしょう)は衣食住(いしょくじゅう)のひとつにして、寒気(かんき)をふせぎ膚(はだ)を覆(おお)ふを要(よう)とするのみにあらず。第一男は礼儀(れいぎ)の像(かたち)をととのへ、女は姿をかざりて天性(てんせい)ならぬ艶(えん)を化粧(けはい)す。」と書かれています。男には社会的な立場をしめす服が求められ、女はより美しくみせるためにきものを着たというのです。今も昔も似(に)たところがありますね。江戸時代の女性のきものは豪華(ごうか)であったり、時にはシックであったりと変化(へんか)に富(と)んでいます。そう、きものにも流行があったのです。
江戸時代には小袖雛形本(こそでひいながたほん)と呼ばれるきもののデザイン集が次々に発行されました。今、知られているだけでも120種以上に及(およ)びます。現代のファッション誌(し)のようなものですから、小袖雛形本を見ていると江戸時代の流行がわかります。
町人文化(ちょうにんぶんか)が花開いた元禄(げんろく:1688〜1704)頃に流行(はや)ったのが友禅染(ゆうぜんぞめ)です。友禅とは人の名前です。彼は当時、京都(きょうと)で扇(おうぎ)の絵を描(えが)く仕事をしていました。友禅の扇は人気(にんき)があったので、その絵をきもののデザインに応用(おうよう)して売り出したところ、これが友禅染としてヒットしたのです。友禅染は染め方にも新しい技術が用(もち)いられたため、新技術と人気のデザインがあいまって流行したのです。友禅は当時、もっとも有名なきものデザイナーでした。
しかし、最新のファッションも時間が経(た)てば流行遅(おく)れとなり、新たなデザインが求められます。友禅のデザインに新鮮(しんせん)さが感じられなくなって、次に注目されたのが光琳文様(こうりんもんよう)です。尾形光琳(おがたこうりん:1658〜1716)は京都で活躍(かつやく)した絵師(えし)です。光琳の描く絵は、例えば「光琳梅(こうりんうめ)」とか「光琳菊(こうりんぎく)」と呼ばれるように、簡略(かんりゃく)ながらもふくよかで鷹揚(おうよう)とした画風(がふう)を見せます。これがきものの文様(もんよう)として好まれたのですが、光琳文様が流行するのはむしろ光琳の死後(しご)のことです。つまり、光琳文様は光琳自身が描いた文様ではなく、光琳の画風をまねたものです。光琳文様がブレイクするのは享保(きょうほ:1716〜35)の頃ですが、その後もしばらくは流行が続きます。
上の写真<湊取(みなとど)りに楓文様小袖(かえでもんようこそで)>は18世紀中頃の光琳文様の小袖です。どこが光琳風かと言えば、藍染(あいぞめ)に白く文様をあらわした三角形の部分がそうです。もはや光琳画の精彩(せいさい)さはありませんが、千鳥(ちどり)や梅などにその余風(よふう)が残っています。
18世紀後半には京都でも江戸風のシックなデザインが好まれ、紺色(こんいろ)などに文様を白く上げる「白上り(しろあがり)」が流行しました。下の写真<湊取りに梅菊(うめきく)文様小袖>も白上りで文様があらわされています。
この小袖で注目(ちゅうもく)したいのは梅や菊の表現です。梅の枝がZ状に曲がり、菊の花は光琳菊に似た描き方ですが、その茎(くき)は必要以上に伸(の)びています。こうした特色(とくしょく)は伊藤若冲(いとうじゃくちゅう:1718〜1800)の絵にもみられるところです。若冲といえば、鶏(にわとり)の絵が有名ですが、その他にも動植物を中心に独自(どくじ)の画風を展開(てんかい)し、名を馳(は)せていました。この小袖には若冲の影響(えいきょう)が見られるのです。若冲の人気が高かった京都だから生まれた小袖といってもいいでしょう。
このように江戸時代のきもののデザインには当時活躍をしていた画家たちが何らかのかたちで関(かか)わっていた場合もあるのです。