工芸室 灰野
1993年01月09日
ヨーロッパの人達が初めて我が国に来たのは、天文(てんもん)12年(1543)。ポルトガル人が種子島(たねがしま)に上陸した時です。その後多くの西洋人が色々な目的をもって来日しました。このときヨーロッパから日本にもたらされた二つの重要なものがありました。一つは鉄砲、もう一つはキリスト教です。
鉄砲は戦国時代に日本統一を果たすため用いられたことはよく知っていますね。キリスト教が当時の日本に爆発的に広まったことも知られています。
このキリスト教を日本に広めるために来たのが、ローマから派遣された宣教師達でした。
ルイス・フロイスの名前など聞いたことがあるでしょう。彼らは、日本のことを熱心に勉強して、その教えを広めることに役立てました。
日本の美術品や工芸品にも当然興味をもちました。特に「蒔絵(まきえ)」という日本ならではの工芸品に大変魅力を感じたのです。
「蒔絵」というのは、漆の木からとれるゴムのような液体(塗ると輝きがあり、強力な接着力がある)で文様を描き、そこに金粉をちりばめて装飾した工芸品です。黒い漆の面に金がキラキラと輝く素晴らしいものです。そして、宣教師達は、この「蒔絵」で自分達の教会の道具類を作らせるほど好きになってしまったのです。
キリストの像や聖母マリヤの像などを入れる額、聖書をのせる台などを作ったのです。
これらの道具を作ったのは京都の蒔絵師という職人さん。宣教師にいわれたとうりの形を作り、そこに得意な「蒔絵」で装飾をしたのです。縁取りは直線や斜線、丸などを組み合わせた幾何学文様、これは彼らの注文で描き、その他の花や樹などは職人さんたちが描きなれた日本の四季の植物を自由に文様にしました。
その頃来日したのは宣教師ばかりではありません。スペインやポルトガルなど多くの国々から商人たちが貿易をするために渡来していたのです。実は彼らも日本からの貿易品としてのこの珍しい「蒔絵」の品々に興味をもちました。ヨーロッパに持ち帰れば高値で売ることが出来ると考えたのです。西洋でも装飾品として売れる形のもの、たとえば洋風の箪笥、飾り箱などで、なんと400年も前の日本でコーヒーカップまで作らせていたのです。
さらに彼らは、当時の日本ではあまり作られていなかった「螺鈿(らでん)」という技法(貝を磨いて貼りつける)に目をつけ、「蒔絵」の装飾にこれを加えてより高値に売ることを考えました。貝の工芸品はスペイン、ポルトガルの人々に親しみがあり、とても豪華に見えたからです。
このような工芸品を「南蛮漆器」と呼んだのです。(中国では古くから南の人を野蛮人だとして「南蛮」と呼び、日本でもその言い方をしていました。)この「南蛮漆器」のうちで一番多く作られたのは下の写真のような洋櫃(ようびつ)でした。
皆さんもよく知っている、スチーブンソン作の「宝島」、あの片足のシルバー船長が活躍する冒険物語、海賊達が宝物を入れて運ぶものと同じ形です。
下の写真の洋櫃に注目してください。中央に可愛い鳥が描かれた洋櫃です。私は、この珍しい鳥を「南蛮鳥」とか「びっくり鳥」とニックネームをつけているんだよ。
その下に孔雀が描かれていますね。樹木や草花は日本のものですが動物や鳥などは、職人さんたちが見たこともない虎やライオン。
西洋の絵で見せられて描いたのでしょう。
大変だったでしょうね。
この「南蛮漆器」と呼ばれる工芸品は、正しくは「近世初期輸出漆器」といわれています。ヨーロッパ人が好んだこの華やかな工芸品は江戸時代、日本が鎖国するともう作られなくなりました。
桃山(ももやま)時代のたった50年間の出来事だったんだよ。
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