美術室 赤尾
2008年07月12日
皆さんは、鴨川に架(か)かっている五条の大橋を知っていますよね。これは、今から440年以上も前の永禄(えいろく)九年(1566)四月に或(あ)るお坊さんが中心となって五条の橋を架けるために人々の寄付を募(つの)ろうとして書かれた「勧進帳(かんじんちょう)」、今でいえば趣意書(しゅいしょ)ということになるでしょうか―残念ながら、これを書き写した人も誰かは明(あきら)かではありませんが―。その時、五条の大橋は「然(しかる)るに先年(せんねん)の洪水の刻(こく)、橋柱流れ落ち」(20・21行目)てしまい、鴨川を渡る人々は「裙(くん、はかまのすそ)を水に浸(ひた)し」、「袖を浪(なみ)に湿(しめ)す」(21・22行目、写真2では1行目から3行目にかけて)状態であったことがわかります。そこで、或るお坊さんが中心となって寄付金を募り、橋を架けようとしたわけです。或るお坊さんとは、きっと清水寺(きよみずでら)に関係のあるお坊さんではないかと思います。どうしてかというと、五条の橋は清水寺にお参りするために渡るようなものですから。
写真2 平安城五條大橋造立勧進帳(巻末) <京都国立博物館蔵>
写真1 平安城五條大橋造立勧進帳(巻首) <京都国立博物館蔵>
さて、五条の大橋といえば、何といっても牛若丸(うしわかまる)と弁慶(べんけい)の話が有名ですよね。皆さんは、この「牛若丸」の歌を聞いたり、歌ったりしたことはありますか。
(1)京の五条の橋の上 大の男の弁慶は 長い薙刀(なぎなた)ふりあげて 牛若めがけて切りかかる
(2)牛若丸は飛び退(の)いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干(らんかん)の 上へあがって手を叩(たた)く
(3)前やうしろや右左 ここと思えば又あちら 燕(つばめ)のような早業(はやわざ)に 鬼(おに)の弁慶あやまった
(唱歌(しょうか)、作詞・作曲者不明)
ただし、ここに歌われている五条の橋が架かっていた場所は、今の五条大橋のところではありません。というのは、現在の五条大橋の場所は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)(1537―98)が方広寺大仏殿(ほうこうじだいぶつでん)―博物館の南隣になります―を造るにあたって天正十七年(1589)に今の場所に移したもので、それ以前は今より一本北にある松原通(まつばらどおり)の位置にあったのです。先にも少し述べましたが、もともと五条の橋は、清水寺にお参りするための橋であり、道―今でも松原通を東に行くと、清水道(きよみずみち)になっています―であったのですが、秀吉は自分が造った大仏殿に人々をお参りさせようとして一本南に移したのです。
ですから、今の勧進帳に出てくるのも、松原通に架かる橋ということになります。この勧進帳を見ると、ちょっとおもしろいことが書かれています。12行目から13行目(写真1、後ろから2行目・1行目)を見てください。そこには「中(なか)の嶋(しま)に一宇(いちう)の閣台(かくだい)あり、水、都を去(さ)る因縁(いんねん)をもって法城寺(ほうじょうじ)と号(ごう)す」とありますから、五条あたりの鴨川に中の島、つまり中州(なかす)のようなものがあり、そこにお寺があったことがわかります。そのお寺の名前がおもしろい。「水(サンズイ)去って、土と成る」お寺が「法城」寺なのです。「法城」のそれぞれの漢字をヘンとツクリにわけると…、わかりましたか?
ついでですが、秀吉が造らせた五条大橋―今の五条通りのところに架けられた橋―の初代(しょだい)の橋脚(きょうきゃく)と橋桁(はしげた)、すなわち天正十七年(1589)に架けられた橋脚と橋桁の現物(げんぶつ)をこの博物館で見ることができます。それは、博物館の西南の角のお庭に展示されており、立体的に組まれた橋脚と橋桁は当時の橋の大きさを想像するのに十分な迫力(はくりょく)があります。また、その橋脚には「津国御影(つのくにみかげ)<天正拾七年/五月吉日>」という文字が刻まれており、摂津国御影(せっつのくにみかげ)、現在の神戸市東灘区御影―背後の六甲山麓(ろっこうさんろく)から採取(さいしゅ)される花こう岩、すなわち御影石(みかげいし)の産地として有名―から運ばれたことがわかります。隣には同年の七月付の三条大橋の橋脚も見ることができます。
当館ウェブサイトでは、ウェブサイトの利便性向上のためにCookie(クッキー)を使用しています。Cookieの利用にご同意いただける場合は「同意する」ボタンを押してください。「拒否する」を選択された場合、必須Cookie以外は利用いたしません。必須Cookie等、詳細はサイトポリシーへ