美術室 赤尾
1996年10月12日
中尊寺経というのは、通称の名前で、正しくは紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)といいます。紺色に染めた紙にお経の文句が一行ごとに金字と銀字で交互に書写(しょしゃ)されています。このお経が最初に納められたお寺が平泉(ひらいずみ)の中尊寺と考えられていますので、一般にこれを中尊寺経と呼んでいます。
皆さんは平泉のことを知っていますか。現在の岩手(いわて)県南部にあるこの町は、平安(へいあん)時代後期の12世紀に奥州(おうしゅう)藤原(ふじわら)氏三代(清衡〈きよひら〉・基衡〈もとひら〉・秀衡〈ひでひら〉)が当時の東北地方を治めた地で、貝をはめ込んだ螺鈿(らでん)と眩(まぶ)しいばかりの金箔(きんぱく)で荘厳(しょうごん=美しく飾ること)された金色堂(こんじきどう)に代表される華麗(かれい)な仏教文化が華(はな)ひらいた土地です。「おくのほそ道」で有名な松尾芭蕉(まつおばしょう)も元禄(げんろく)2年(1689)5月この地を訪れて、「五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりどう)」という俳句(はいく)を詠(よ)んでいます。
さて、一切経というのは、経(きょう=仏さまの教えを書いたもの)・律(りつ=信者が守るべき規則)・論(ろん=仏さまの教えを解釈〈かいしゃく〉したもの)など仏教の書物(経典〈きょうてん〉)を集大成(しゅうたいせい)したもので、一セット5400巻近い経典から成り立っています。全部を書写するのに必要な紙の枚数は約九万枚と考えられますが、それを紺紙に金と銀で書写するとなれば、莫大(ばくだい)なお金と時間、そして人手が必要となります。このような大事業をおこし、それを行ったのが初代藤原清衡(1056-1128)でした。実際に書写事業がはじめられたのは、永久(えいきゅう)5年(1117)2月からと考えられますが、9年後の天治(てんじ)3年(1126)3月には完成を見ています。そのうちの一巻がこのお経です。
お経の本文に先だって描かれている絵は、表紙の裏の見返(みかえ)しという部分に描かれているので見返し絵といいます。このお経の見返し絵は、仏さまとなった釈迦(しゃか)が説法(せっぽう)をしている様子を描いた釈迦説法図といわれるものです。見返し絵には、このほか、お経の内容を絵画化したものや当時の風俗を描いたものなどもあります。
表の表紙には宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)という文様が描かれています。見返し絵・宝相華唐草文とも、やはり金と銀を使って描かれています。また一行ごとのお経の文句を区切る線を界線(かいせん)といいますが、その界線は銀で引かれています。
次にお経の本文を見て下さい。文字もていねいに写されていますが、ずいぶん金や銀の文字がひかり輝いていると思いませんか。これはお経を写した後でその表面を上下に猪(いのしし)の牙(きば)のようなものでみがいているからです。見る角度を変えたりするとみがいた跡が今でも見えたりします。文字が美しく見える秘密がここにあるのです。大へんな手間だったことでしょう。
それではなぜ、紺色に染めた紙や金・銀を使うのでしょうか。紺色は、仏さまなどを飾る七つの宝物である七宝(しちほう=七種の金属や宝石をいう)のうちの青色の宝石である瑠璃(るり)を表現したもので、瑠璃は仏さまの国の地面を覆(おお)っている宝石です。金や銀も七宝の仲間ですから、これらの七宝を使って仏さまの教えを荘厳しようとしているわけです。もちろん、このようなお経を造ることによって、清衡自身も七宝に飾られた仏さまの浄土に生まれ変わりたいと願ったわけです。
平安時代後期には紺紙に金字のお経は盛んに書写されましたが、この中尊寺経のように紺紙に金銀交書という形式のお経は大へん珍しく、加えて一切経という大部(たいぶ)なお経を紺紙金銀交書とした例は日本はいうに及ばず、中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)を見てもその例はほとんどありません。
現在この金銀交書の中尊寺経は全体で4500巻近くも現存していると思われますが、その大半の4200巻余りが高野山(こうやさん)に伝わり、もとの中尊寺にはわずか15巻が伝わるのみです。
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