- TOP
- 学ぶ・楽しむ
- おうちで学ぶ・楽しむ
- 博物館ディクショナリー
- 書跡
- 藤原定家の日記 『明月記』(ふじわらさだいえのにっき 『めいげつき』)
藤原定家の日記 『明月記』(ふじわらさだいえのにっき 『めいげつき』)
美術室 下坂
1996年03月09日
皆さんは日記を付けていますか。日記といえば「三日坊主(みっかぼうず)」という言葉がすぐに思い浮ぶほど続けるのはむずかしいものですね。
でも、養老(ようろう)4年(720)に完成した歴史書『日本書紀(にほんしょき)』はそれ以前に書かれていたいろいろな日記を参考にして作られたといいますから、かなり古くより日記をつけていた人がいたことになります。どんな日記だったのでしょうか。ただ『日本書紀』より少し早く和銅(わどう)5年(712)に作られた『古事記(こじき)』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人の記憶力(きおくりょく)に頼って書かれており、文字を書ける人が少なかった時代には日記はやはり一部の人のものであったことは確かなようです。
日記がより広く書かれるようになるのは、平安時代(へいあんじだい)になってからのことです。特に熱心だったのは公家(くげ)たちでした。しかし、彼らが毎日つけていた日記は現在のものとはかなり違います。そこには日常生活の細々(こまごま)としたことが書かれることはほとんどありませんでした。彼らが日記に一所懸命(いっしょけんめい)書いたのは、朝廷(ちょうてい)での会議(かいぎ)・儀式(ぎしき)の詳(くわ)しい手順だったのです。これは日記を公家が自分たちの子供や孫に残す記録と考えていたためです。朝廷の会議・儀式で恥をかかないように子孫のために彼らは日記をつけていたのです。ですからその日記は最初から人に見られることを承知で書かれていたものということになります。自分の感想や意見を書かなかったのはむろんこのためです。その点で平安時代の特に最初の頃の日記は、一種の会議・儀式に関するマニュアルであったといってもいいかもしれません。
日記に自分が思ったことや、感じたことをつけるようになっていくのは、朝廷での会議・儀式が次第に形式化していった平安時代も後半になってからのことです。下の写真は、ちょうどそのような時代に書かれた、藤原定家(1162-1241)という人の日記です。この日記には『明月記(めいげつき)』という優雅(ゆうが)な名前が付けられています。
定家は和歌(わか)がたいへん上手で、天皇から命令を受けて『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』『新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)』の和歌集を編集したことでも知られた公家です。また今も正月によく行われるカルタのもとになる『小倉(おぐら)百人一首』を選んだのもこの藤原定家です。
定家は10代のときから80歳で死ぬまでほとんど欠かさず日記を書き続けていました。現在、残っているのは19歳から74歳までのものですが、その多くは今も定家の子孫である京都の冷泉(れいぜい)家に大切に保管されています。
写真は定家が38歳の建久(けんきゅう)10年(1199)正月から3月までを収めた一巻です。ちょうどこの年の正月11日には、鎌倉(かまくら)で将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)が死んでおり、そのことも書かれています。京都にいた定家が、頼朝の死を知ったのは正月18日のことですから、この時代いかに鎌倉と京都が遠かったかが、これによってわかりますね。
のちの時代になると、定家は歌人から神様のように崇(あが)められるようになり、その結果定家の和歌だけでなく筆跡(ひっせき)までをもまねることが大流行します。定家の名を取り「定家流(ていかりゅう)」と呼ばれた書風(しょふう)で、日記に見えるかなり変わった筆跡がまさにその原形となるわけです。でも定家自身は、決して自分の字を上手とも思っていなかったようで、「鬼(おに)」のような字だと『明月記』に書いています。日記の記事だけでなく、定家の「鬼」のような字を鑑賞できるということでも、『明月記』はたいへん面白い日記といえましょう。