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日明貿易の「勘合」(にちみんぼうえきの「かんごう」)
美術室 下坂
1993年11月13日
9世紀末に遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止されて以来、長い間、途絶えていた中国との交流が再開されたのは、室町(むろまち)時代に入った応永(おうえい)8年(1401)のことでした。この年、博多の商人のすすめによって、室町幕府(ばくふ)の将軍足利義満(しょうぐんあしかがよしみつ)(1358~1408)は、当時の中国いわゆる明(みん)に船を派遣します。日明貿易(にちみんぼうえき)の始まりです。
現在、中国に行こうとすれば、大阪から上海(しゃんはい)まで船で3日間、飛行機だとわずか2時間あまりという短時間で、簡単に行くことができます。しかし、風任せの当時の船では、どんなに急いでも片道の航海だけで約1月、それに出発前の風待ちや中国に渡ってからの陸路の旅を含めると、往復で足掛け数年にわたることも少なくありませんでした。そのような困難な旅ではありましたが、日明貿易はこののち16世紀の半ばまで約150年の長きにわたって続き、その間、実に19回も遣明船(けんみんせん)が明に派遣されることとなります。
この日明貿易によって、中国からは銅銭(どうせん)、生糸(きいと)がわが国に輸入され、またわが国からは硫黄(いおう)、刀剣(とうけん)、扇(おうぎ)などが中国に輸出されました。通貨(つうか)である銅銭が輸入されていたというのは、現代の私たちから見るとなにか不思議な気がしますが、当時、わが国では銭をまったく作っておらず、国内で流通する通貨は、すべて明からの輸入に頼っていたのでした。
それはさておき、この日明貿易には今日の貿易と大きく異なる点がありました。それは両国の関係が対等ではなかったことです。明は自分たちの国が世界の中心にあるという、いわゆる中華思想(ちゅうかしそう)にもとづいて対等の交流をいっさい認めず、あくまでも献上品(けんじょうひん)にお返しを与えるという形でしか、他国との貿易を認めていなかったのです。
そしてそのため献上品を積んできた正式の船であることを証明するものとして、明が国々に与えていたのが「勘合(符)(かんごうふ)」と呼ばれる札(ふだ)でした。むろんわが国にもこの「勘合」が与えられています。
「勘合」とは一種の割符(わりふ)で、そこに記されている片割れの文字は、「底簿(ていぼ)」と呼ばれる台帳の文字としか一致しないようになっていました。
明では、「勘合」を「底簿」と照合することで、その船が献上品を運んできた船かどうかを判断したのでした。
残念ながら、「勘合」の実物は残っていません。ただ、幸いなことに応仁(おうにん)2年(1468)に将軍足利義政(あしかがよしまさ)の命令で明に渡った天与清啓(てんよせいけい)という禅僧が記録した『戊子入明記(ぼしにゅうんみんき)』という記録に、その形を写しとった図が描かれています。写真にあげたのが、その「勘合」の図です。
これを見ますと、縦長の紙の札で、中央に「本字壱号(ほんじいちごう)」という文字が書かれているのがよくわかります。「勘合」の大きさは、この図からはちょっと想像しにくいのですが、実際にはかなり大きく、縦は約82センチメートル、横は36センチメートルもあったといわれています。国の間でやり取りされる文書だけに、立派で大きな紙が用いられたのでしょう。
また文字ははんこで押され、数字だけが筆で書き入れられていたといいます。さらに文字と数字のどちらかははっきりしませんが、一方は朱(赤色)であったこともわかっています。実物の「勘合」は見た目には実に鮮やかで、堂々としたものであったに違いありません。
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